2001年1月号会報 巻頭言「風」より

「環境の世紀」と環境省の課題

加藤 三郎


私たちは随分前から、日本や世界の21世紀について様々に語り合ってきました。「環境の世紀」といわれる21世紀が現実に到来した今、会員の皆様には、どのようなお気持で歴史のこの節目を迎えておられるのでしょうか。

「環境の世紀」の開幕とタイミングを合わせたかのように、今月6日に環境省が発足しました。国の行政改革の一環として環境庁が省に昇格されたものですが、他の省庁で整理、統合されたものが多かったなかにあって、環境庁だけが省に格上げされたことをまず私は素直に喜びたいと思います。庁が省になるとこれまでとどう違うのかなどについては、藤村コノヱさんが環境省の小島敏郎さんに伺っていますので、詳しくは3頁からのその記事を見ていただきたいのですが、外形的には、予算も人員も増え、廃棄物・リサイクル行政など役所としての権限もだいぶ増強されたようです。

私にとって特に重要と思われるのは、21世紀にはますます深刻化、危機化すると思われる地球環境問題への対応を強化するため、これまでの地球環境部が局に格上げされたことと、初代局長には、部の創設の時からたいへん苦労してこられた浜中裕徳さんが就任したことです。今後の行政の展開を期待を込めて注視していこうと思います。

ところで、環境省の将来は、バラ色に末広がりに発展するかといえば、むしろ困難が多く、苦渋に彩られることを覚悟しなければならないように私には思えます。環境省の誕生は、環境政策の着実な実施を求める政治の要請と国民の期待に支えられていることは間違いありませんが、その一方で政治も国民も景気回復を求める声が依然大きいのも現実です。経済優先を旧来型の経済運営の延長線上で押し進めようとしている与党三党に基盤を置く現政府の政策スタンスのなかで、環境を守る仕事をすすめてゆく難しさをつくづく思わざるを得ません。

経済と環境の両立ほど、現実の政治課題として困難な点が多いことを改めて痛感させたのが、三年前に合意された京都議定書を発効させるためのルールや細目づくりを目指した地球温暖化防止ハーグ会議(COP6)の中断という蹉跌でした。このことは、単に京都議定書の発効が遅れる恐れが強くなっただけでとどまりません。地球の温暖化が科学者の多くが以前に考えていた以上に深刻化しているなかにあっては、失望以上であり、まさに人類の未来が一層の危機に曝されたと受けとめたのは私だけではないと思います。

実はこのハーグで、国連の専門家会議(IPCC)のワトソン議長は地球温暖化の最新の科学的予測を明らかにしました。それによると今世紀末には、これまでの予測の約2倍にあたる1.5~6度の上昇温になるということです。この意味することをわかりやすく説明すれば、例えば、東京と鹿児島市の平均気温の差が2度であること、約一万年前の氷河期と今日の平均気温の差が5度程度であることなどを考えると、文字通り破滅的なインパクトを地球の環境と人間の生活に与えることを私たちは知らされているからです。

このハーグ会議が不調になった理由として、日本が京都議定書に反する森林吸収源の大幅なカウントを終始主張し続けたこと、あるいは原子力を代替エネルギーとして書き込ませるために踏ん張ったことなどが報じられています。もちろん日本は途上国支援を積極的に主張するなど、ポジティブな貢献もしたと思いますが、米国の大統領選挙の混迷の中で、いわば主なき米国代表団と並んで京都議定書を進めることにならない外交姿勢をとったことは、誠に残念だと思います。

もちろん温暖化の問題といえども、外交は駆引きの場であるので単純に日本の態度を批判するのは公平を欠くとは思います。しかし、日本は京都議定書をまとめた国なのです。その国が京都議定書を潰しかねない挙にでたのは、いくら日本の政治が混迷の中にあるといえ、誠に問題と考えます。

なぜ3.7%の森林吸収に日本がこだわったかといえば、私の理解では、京都議定書が合意された時に関係省庁間で日本が6%削減になってもエネルギー多消費型の産業界にさらなる対策を求めない観点から森林吸収分を最大限カウントする趣旨で確認が交わされ、その後地球温暖化対策推進大綱などをつくるときにその確認が国の大方針にいつの間にか格上げされ、いまやその大方針があたかも動くべからざる国民の意思のごとく動き出したところに問題があります。環境新聞(12月6日)は、このハーグ会議の報告を行った自由民主党環境部会の会合において、同党のエネルギー政策総合小委員会の甘利明委員長は、今後の交渉において「3.7%を死んでも取って来い。取ってこなければ責任問題として誰かやめてもらう」と発言したと伝えています。ここでも、短期的な経済に対する政治的配慮が、環境を守るという長期的な利益をはるかに凌駕している政治現場の厳しい一端を垣間見る思いがいたします。

私がCOP6での蹉跌をくどくど書いたのは、他でもありません。人類の未来の命運を左右するような大問題も現実の政治や役所間の駆引きにおいては、短期的な視点に立つ「経済のため」という命題の前には、今のところ、手も足も出なくなることがあるということを再認識しておきたいからです。これは別に日本の政治に特有なことではなく、米国においても、また環境派を自認するEU諸国においても濃淡はあっても大差ないと私は思います。その例を挙げてみましょう。

ハーグでのCO2削減のための大会議をしていた丁度同じ頃に、サウジアラビアのリヤドでは、石油の消費国と産油国との間の重要な会議が開催され、ここで石油価格の上昇を押さえるためOPEC諸国に対し、石油の増産(つまりは、CO2の排出増加をもたらす)を含む価格の安定が求められました。欧米などの先進国は、昨年の夏、油価格の高騰に怒ったトラックドライバーたち消費者によって手ひどい政治的、社会的打撃をうけたからです。つまり去る11月、ハーグではCO2の排出削減を論じていながら、リヤドでは石油の増産につながる先進諸国政府の対応を見ていると、時に痛みを伴う環境対策に踏み込むことの難しさを思い知らされるとともに、そこを突き破らねば成し得ない環境省の真の仕事の難しさを思わざるを得ないからです。

このような困難を克服する道はあるのでしょうか。正直いって、物の豊かさや利便性を求める欲求は私たちの心のなかに深く深く根づいているだけに、そこから脱却するのは誠に難しいと思います。しかし道があるとすれば、国民各層の人が短期の経済的利益のために中・長期的な環境の危機を招き入れることの愚かしさや不合理、さらに言えば真の意味の不経済性を悟って、そこから、これまでの経済優先とは違った方向に行動を起こすしかないと思えます。別の言い方をすれば、環境と「良い」経済とは、本来は両立するが、短期的な視点だけで利己的な利益を追求する「悪い」経済とは、価値判断の時間軸を異にするため、両立しえないという認識をもつこと、そして、人間社会の持続性のために、「良い経済」を押しすすめ、「悪い経済」から脱却する知恵を今一度取り戻し、現実を変える政治的な力に転換するしかないと思われます。つまり、「経済」というものに対する見方をこれまでとは違ったものに変え、深めるしかありません。

私は、環境省が将来、国民の期待にたくましく応じてゆくためには、この「良い」経済と手を携えていくしかなく、その状況をつくるため、NGOや良き経済を求めて未来を切り拓いていこうと努力している経済界の人たちとのパートナーシップを積極的に築き上げることだと考えています。