2001年5月号会報 巻頭言「風」より

私の構造改革論(1)

加藤 三郎


1 内容や目的不明の構造改革論

<構造改革なくして景気回復なし>を強く訴え、大方の予想を覆して自民党の総裁選に圧勝した小泉純一郎氏の内閣が4月26日に発足した。本稿を書いている今、「聖域なき構造改革」に向けて全力を尽くすという小泉氏の政治姿勢が、自民党員のみならず国民の心をとらえたせいか、報道各社の世論調査によると、小泉内閣は8割前後の超高支持率を今のところ得ている。

思えば、昨年の暮れぐらいまでは「景気回復、景気回復」という掛け声一点張りであった。92年8月の宮沢内閣で総合経済改革を打ち出し、公共事業や中小企業のために10兆7千億円の事業規模の経済改革を始めて以来、わずか10年足らずの間に細川、村山、橋本、小渕、そして森の各内閣において全部で11本の景気対策が打たれた。その内容は、公共事業、減税そして規制緩和の3つといっても過言でなく、このために注ぎ込んだ国費は150兆円ほどである。小渕首相は「私は世界一の借金王」と自嘲気味に語ったそうだが、それでもつい最近までは構造改革や財政改革はそっちのけで景気対策に税金を注ぎ込んできた。その結果、国、地方合わせて666兆円の借金を抱えるに至り、しかも経済の内容はよくならず、日本経済は出血多量で重態におちいりつつあったのである。

簡単に兆円というけれど、どんなお金か分かりやすく言えばこういうことになろうか。百万円は1万円札のピン札で束ねると、約1センチの厚さになる。1億円は約1メートル、1兆円は1万メートル(10キロ)の厚さだ。それが666兆円だから、およそどのくらいの札束になるものか見当をつけてほしい。

私は本誌において繰り返し無策の景気対策を批判してきた。「同じ公共事業でも21世紀に役立つ公共事業がある。経済も将来の基盤をつくるための経済がある。経済と環境の真の調和こそ日本が目指すべき政策だ」と主張し、いくつかの具体的提案もしてきた。さすがに、今年に入って各方面から構造改革論議が盛んになってきたが、私の見るところ、現時点ではほとんど掛け声だけで、中身は未熟だ。ただひとつ、多少なりともまともかなと思ったのは、4月26日の夜、小泉内閣の初閣議で決定されたと伝えられている構造改革の項目である。それによると、①緊急経済対策の具体化と規制の見直し、②財政構造、社会保障の仕組みの再構築、③公務員制度、特殊法人などの行政改革や地方分権の推進、④IT革命と教育、司法制度の推進という事項提示である。

しかしここでも欠落しているのは、何のための構造改革なのか、何が悪くて、何処をどう変えようとしているのか、日本にどのような社会をつくろうとしているのかなど、問題の所在を明示するとともに、目指すべき社会のビジョンの提示である。そうでなければ構造改革といったところで単なる課題の羅列にしかすぎなくなるからである。

これまでの10年を見てくると税金注入による景気回復を囃したて続けたエコノミストの無責任な姿が浮き上がってくるが、同時に一時のカンフル剤にすぎない景気回復にすがって政治家や政党に支持を与えてきた国民もまた苦い教訓を学ばなければならない。そんな思いで私は2回にわたって、私自身が考える構造改革論とは何かを述べてみたい。

2 何のための構造改革か

(1)日本にとって今何が問題か

この問題について私は次の5点が特に問題だと考えている。第1は、これまで人間の活動量が拡大しつづけ、本来有限な環境の限界にとうとうぶつかってしまったということである。つまり、身の回りから地球規模に至る環境問題が深刻になってしまっている。本誌でも度々ふれた地球の温暖化はその典型である。これからは有限な環境の中での経済活動、つまり環境負荷が少なく、環境と調和しうる経済の中身を考えなければならない。

第2に右肩上り症候群とも呼ぶべき経済の規模拡大や効率性最優先の価値観が国民の間に蔓延し定着してしまったことである。この症候群はバブルの時にほとんど狂乱状態になり、その後バブルが崩壊して10年近くたっても未だ克服しきれていない。しかも、この症候群は、単に環境に悪影響を与えただけでなく、例えば青少年の精神的なストレス、家庭の崩壊、さらには、すべてを目先の利益のみで判断し、中長期的な視点で物事を考えることができなくなるなど人間・社会面にも影響を及ぼしている。つまりこの半世紀間、私たちは経済に過大なウエイトを置きすぎたのだ。この価値観をつくりなおすことが、新しい地平を切り拓くためには不可欠だ。

第3に市民一人ひとりの主体性と連携の不足である。つまり、国民が皆、なんだかんだ言いながらも行政や会社に無意識のうちに依存する心が根づいてしまって、自己責任の精神が希薄になってしまった。市民間での主体的な連携も不足している。ヨーロッパやアメリカの市民社会を訪ね歩いているとそのことを痛切に感ずる。市民一人ひとりの主体性を取り戻すことが大きな課題だ。

第4に社会の規律が喪失し、タガがすっかりはずれてしまった。官民を問わず不祥事が多発し、責任者が責任回避し、そして本来、倫理観を育むはずの教育現場も崩壊状態。規律なき社会がいかに恐いかは昨今の相次ぐ悲惨な事件が明示している。そのことを考えると、社会に規律を取り戻すことが重要である。

第5は国際性の欠如を指摘せざるを得ない。日本の社会も世界の中にあり、世界には富める国もあれば貧しい社会もあり、様々な文化や歴史、伝統を持っている。そういう世界への対応、特に途上国における深刻な貧困問題などに関心を持ち、共に努力して解決する姿勢を貫かなければ国際社会で尊敬を受けることは出来ない。先進国事情に詳しいだけでなく、途上国に対する深い理解を含めた真の国際性を獲得しなければならない。

(2)どんな社会になってほしいか

構造改革の前提として、日本がどんな社会であってほしいと私が願っているのかについては、本誌で直接、間接、繰り返し語ってきたつもりであるが、改めて要約すれば、次の三つになろうか。

①経済活動と環境保全とが真に調和した持続する社会

従来のように、経済と環境とが相反する、ないしは建前では相反しないまでも実際になると互いに足を引っ張り合う社会(つい最近のアメリカ大統領ブッシュ氏のように、アメリカ経済を守るためと称して、地球温暖化防止のための10年もかけて積み上げてきた京都議定書を拒否する姿勢がその典型)ではなく、経済活動自体が環境保全に寄与し、また環境保全活動そのものが経済活動ともなっているような社会を設計し、運営する。そんな夢のような社会は出来る筈はないのではと問われるかもしれないが、私は設計と工夫にさえ宜しきを得れば可能であると確信している。(例えば、高公害車を低公害車に置き換え。植林、育林による治山・治水。風力やバイオマスなどの自然エネルギーの開発利用。公共交通機関の拡充などなど無数ある)

②自立した個人が協力し合いながら、心豊かに生きられる社会

前述の通り、私たちの多くには、骨の髄までしみついてしまった役所や会社などの組織への帰属・依存体質を振り払って、自立し、自己責任を原則とする心根をもった市民がもっともっと沢山でて欲しい。自立しているといっても孤立しているのではなく、NGOなどの市民団体での活動を通じて、横にも確かなつながりのある一人ひとりが織りなす社会。そうであれば、そこに生きる人は、心豊かな生活が出来るのではないか。

③多様性の尊重と革新に対して寛容な社会

世界の人々が、より一層混り合う21世紀の社会では人種的、文化的、宗教的、政治的にますます多様化することは避けられず、むしろそれを尊重し合う社会をつくらなければ、人々は不断の紛争に巻き込まれる。また制度や技術などすべてについて、日々革新も必要である。

このように、多様性や革新こそ、人間社会をダイナミックに動かす源泉として尊重する社会になってほしい。

さて次回には、構造改革の具体的な骨格を示してみたい。