2001年9月号会報 巻頭言「風」より

日本の食と環境倫理

加藤 三郎


地球環境時代を生きる私たち一人ひとりは、従来の倫理に加え、人と自然環境との関係を規定する環境倫理もしっかりと身に付けておくことが重要である。その環境倫理の内容は、本欄でも何度も述べた(例えば2000年4月号)ように、「循環(地球の限界のなかで人類社会の持続性の確保)」、「共存(生きものあっての人間の生存及び人と人との共生の自覚)」、「抑制(貪欲は結局は人間社会を破壊するという自覚)」の三つのキーワードに集約出来ると考えている。この三つを判断尺度として、今日の日本の食を7つの視点から評価してみよう。

なお、ここではスペースの関係で評価の根拠となったデータ等について詳しくは触れていないが、近く発行予定の環境と文明ブックレット『食卓から環境倫理を考える(仮題)』に掲載するので、関心のある方は参照願いたい。

1.今日の日本は、大量の食料を海外からの輸入に依存しているにもかかわらず、大量に食べ残し、これを捨てている。これは、環境倫理の「循環」にも「共存」にももとる。

1997年度において、国民一人当たり一日に供給される食料(酒類を除く)は2,619キロカロリーであったが、実際に摂取されたのは1,948キロカロリーであった。つまり、671キロカロリー、供給熱量の約25%が摂取されなかった。供給熱量と摂取熱量の統計は、調査方法がそれぞれ違うため、単純に比較はできない。しかし、両者の差は食べ残し、廃棄によるものが多いと考えられる。

例えば、高月紘京大教授らが長年にわたって京都市で家庭ごみの組成を調査したところ、調理くずの重量が減ったのに対して、食べ残しの量が増えていたという。また、食べ残しの中には未開封のまま捨てられるものが増えてきているという。

2.食料を調達する過程では、国内のみでなく海外でも乱獲、モノカルチャー、薬剤の多用によって、生産国の農環境を損傷している場合が見られる。この状況は、循環・共存・抑制のいずれの環境倫理要素にももとる。

近年、小麦、大麦、コウリャン、トウモロコシ、大豆、コーヒー豆、綿花、天然ゴムの8品目に関して、世界全体で約1,200万ヘクタールの土地が、日本への輸出のために利用されたという。これは、日本の総耕作面積483万ヘクタールの約2.5倍、国土全体の約30%に相当する面積である。

日本人が特に好むマグロ、エビなどは、多量に遠方から輸送されている。1998年に日本で消費されたエビの89%は輸入品であり、世界貿易量の4分の1が日本に向けられている。海と陸両方の生態系保全など多面的な機能をもつマングローブ林が養殖の造成に使われるケースもあり、生産地の自然への影響が懸念される。エビの大口輸入国として、輸出国の産業に社会的な影響も及ぼしている。

1996年にマグロ数種は、国際自然保護連合(IUCN)によりレッドデータブックに載せられた。多国間でマグロの漁獲量制限が交渉されているが、現在も日本は世界一のマグロ消費国である。絶滅の恐れがあるクロマグロなどの高級マグロに関しては、日本の刺身市場は世界の缶詰市場の10倍の値をつけており、日本へ向けて輸出が殺到している。

3.食料が他の工業製品と同じように工場で大量生産され、大量に供給されるようになった。それは、私たちの命を養ってくれる食に感謝する「ありがたい」や「もったいない」のこころを希薄にしている。これは環境倫理の抑制にたがう。

ライフスタイルの変化と食料の工業製品化が同時に進行し、食事の簡便化と外部化が進んでいる。1980年に比べ、レトルト食品は1998年までに3.4倍に、冷凍食品は2000年までに2.6倍に生産量を増やした。中国、タイなどからの調理冷凍食品の輸入高も伸びている。

一方、お惣菜やお弁当の購入、宅配サービスの利用、ファーストフードやファミリーレストランなどでの外食も増えている。多彩な加工食品をそろえるコンビニエンスストアの普及は、24時間いつでも簡単に食事することを可能にした。工業製品化した食料は自然の恵みのイメージとは遠く、感謝の気持ちを希薄にしていると思われる。

インスタントラーメンは、1958年に日本で発明されて以来、袋麺からカップ麺そして生麺へと多様化し、その年間生産量は誕生時の1,300万食に比べ409倍に伸びている。

4.多くの農作物が、季節に関係なく一年中供給されている。その生産や輸送、保管のために使用される大量のエネルギーやポストハーベスト農薬は、環境や人の健康に大きな負荷を与えている。これは、循環や抑制にたがう。

生産効率や保管性、輸送性を高めるために農薬が過剰に使用されがちであり、人体と環境の潜在的な汚染が進んでいる。日本は大量に食料品を輸入しているが、ポストハーベスト農薬が使用される輸入農作物には、農薬がより多く残留すると危惧される。1997年東京都の調べでは、基準値を下回るものの、514品目中93品目の輸入農産物から21種類の農薬が検出されている。特に小麦粉をはじめとする穀類、オレンジ、グレープフルーツなどの柑橘類、バナナからの検出頻度が高い。

また、農産物を季節に関係なく供給するために、多くのエネルギーが投入されている。例えば、ハウスで加温して栽培されたキュウリは、露地栽培または無加温のハウス栽培に比べて5倍ものエネルギーを投入して栽培される。また、トマトでは、冬春どりの温室加温のものは、夏秋どりのハウス無加温のそれよりも、栽培のために10倍のエネルギーを消費している。これは、温室栽培の場合には換気扇や照明などの機械力を多く使用するためである。

栄養学の分野の研究では、その旬に合わせて栽培された作物の方が、旬でない時期に温室栽培されたものに比べて栄養素が豊富であることが確かめられたという。旬のものであれば農薬やエネルギーの使用量も少なくて済み、環境にも健康にも良いということである。

安全で豊かな食を求めると共に、食生活の地球環境への負荷についても考える必要がある。

5.生活時間の多忙さ、インスタント食品の導入、外食の増加などにより、家族が一緒に食事をする機会が減っている。共食の衰退により、家族の語らい、子供へのしつけ、食にまつわる文化の伝承など、食卓の重要な機能が失われつつある。これは、環境倫理の共存や抑制にもとる。

親の仕事、子供の習い事といった生活時間の多忙化や、核家族化、テレビを見ながらの食事などにより、家族の団欒が失われつつある。1995年には、朝食を子供が一人で食べている割合は小学校で5.0%、中学校で14.4%となっている(日本体育・学校健康センター「児童生徒の食生活等実態調査」)。子供が一人で食べる癖がついてしまうと、集団で食事をする場合に精神的な緊張が出てくるという(TBS「ニュース23」多事争論、1997年9月4日放送)。別の調査は、一人で食事をする理由として、20歳代では他の世代より多い17.6%が「落ち着いて食べられるから」をあげていることを報告している。

子供が一人で食べることが多い場合には、食事の内容もインスタントやレトルト、冷凍食品などの簡便で偏りのあるものになると思われる。「成人病」が「生活習慣病」へと名称が変わったのは、成人病の若年化に他ならない。これも「食生活」が原因にあると言われている。

6.食の工業化によって、紙、プラスチックなどの容器包装が大量に使われており、使用後に膨大な廃棄物となっている。この処理やリサイクルに膨大なコストがかかっており、これは循環にもとる。

家庭ごみのなかのプラスチック類は、ほとんどが食料品関係のパックやカップ、あるいは袋などの容器包装に使用されている。また、紙やガラス、金属などを含めた容器包装類似物で見れば、家庭ごみ全体の約60%を占めている。このように、家庭ごみの容積の大半は、容器包装という必ずごみになってしまうもので占められており、重さの割にかさばり、処理が難しくなっている。

7.「飽食・グルメ」と評される日本の食は、一面で、マスメディアを使った広告によって煽られている。食べ残しと大量廃棄を助長する日本の食の広告のあり方は、抑制にもとる。

食に関する情報は、日頃、テレビや新聞、雑誌等様々な媒体を通じて提供されている。それは、食品自体の宣伝や調理方法、世界各国の食品や食生活、食文化を伝えるものなど、様々である。

広告はこのような食についての重要な情報源の一つである。テレビ広告費の業界別割合では、食品業界が14.5%、飲料・嗜好品業界が12.1%を占める最大の業種である。

マスコミ四媒体の広告費のうちテレビは半分以上を占め、2000年には2兆793億円が支出されている。業界別の割合をみると、21業種中、加工食品を中心とする食品業界と、飲料・嗜好品業界を合わせた広告費が2割弱を占めている。この他にも外食の広告がテレビで大幅に増加しており、食品に関して大量の情報が提供されている。

食品は、毎日の生活に欠かすことのできない必需品である。また、種類が多く、自動車や家電製品と異なり機能性や耐久性で差別化しにくいことから、消費者に選択されるには知名度の高さが重要であると言われる。このため、テレビという身近な広告媒体においては、食品関連業界の位置づけが他の業界よりも大きなものとなっている。

日本は高価な食料を大量に輸入し、一方で大量の食べ残しを捨てている。これを「飽食・グルメ」と評されるようになっているが、それを一面で煽っているのも、マスメディアを使った膨大な広告である。そのような日本の食の広告のあり方は、抑制にもとる。

以上、多少強引で独断のそしりも受けるかもしれないが、日本の食卓の現状を環境倫理部会での議論もふまえ、環境倫理の観点から私なりに分析してみた。こう記してみて、改めて思うのは、日本が、政府も国民も、1世紀以上、特に戦後の50年間で、農業を軽んじ、ほとんど放棄してきた結果の重さである。農村から忍耐強くて優秀な人材を都市に送りつづけ、二次、三次産業に投入してきた結果、工業製品やサービスは極めて豊かになった。しかし、人間が一日も欠かせない食の生産現場である農地と、生命の維持装置でもある自然環境は荒れてきている。そのことは、伝統、感性、文化といったものを長年にわたって育んできた最も重要な根が枯死しつつあることも意味する。これが私達の子や孫の生活に、どのような影響を与えていくかは、やがて明らかになるであろう。それが悲劇的なものとならないことを祈るばかりである。

そんな思いから、来る10月20、21日の両日、長野県の長谷村において、「自然と調和した食」をテーマにシンポジウムとエコツアーを実施する。秋の一日を南アルプスの麓で楽しみながら、日本の食を論じ合えるよう、多くの方の参加を期待する。