2002年2月号会報 巻頭言「風」より

地球サミットから10年

加藤 三郎


今年2002年は、ブラジルのリオデジャネイロで開催された地球サミット(国連環境開発会議)から10年経つ節目の年であり、この8月末から9月初めにかけて、南アフリカのヨハネスブルグで、「持続可能な開発に関する世界サミット(WSSD)」が開かれる年である。'92年の地球サミットに先立つ20年前、国連としては今日の地球環境問題に取り組む第一回目の会議となった、国連人間環境会議をストックホルムで開催している。私自身、このストックホルム会議と地球サミットの二つの会議に参加していることもあって、ヨハネスブルグサミットのゆくえにも浅からぬ関心を持っている。そこで、地球サミットから10年、人類社会の未来を占う、環境と開発の問題が今どういう状況にあるのか概観してみよう。

1. 地球サミットで何があったか

地球サミットは'92年6月、環境問題としては初めて、大統領、首相レベルの参加を得た一大イベントとして開催された。私自身はその数年前から、この会議の準備にあたってきたが、当時は自民党単独政権下で、環境族のドンでもあった竹下登氏の意向が強力に働いていた時期でもあったので、日本はかなりの程度、この会議の成功に寄与することが出来た。この地球サミットでいろいろあったが、重要な点を振り返ってみると、次の3点であろう。

(1) 環境と開発の問題をめぐる南北間の共通原則の確立(リオ宣言)

各種サミットが開かれるごとに、その都市の名を冠した宣言が発せられているが、地球サミットでも「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」、通常リオ宣言といわれるものが採択されている。このリオ宣言には沢山の重要な原則が書き込まれているが、私の見るところ最も重要な原則は、「共通だが差異のある原則」である。これはどういうことかというと、「地球環境の悪化への異なった寄与という観点から、各国は共通のしかし差異のある責任を有する。先進国は彼らの社会が地球環境へかけている圧力および彼らの支配している技術および財源の観点から、持続可能な開発の国際的な追求において有している義務を認識する」と書いてある。

外交文書であるので、回りくどく書いてあるが、一口で言えば、先進国が地球環境に悪さをしたことを認識して、途上国が持続可能な開発を追及する際、先進国も技術面、資金面で支援する責務を有することを述べている。この原則は国連で長年にわたって議論された末に到達した極めて重要な原則である。例えば地球温暖化対応において、アメリカも日本もバングラデシュもフィジーも同じ責任ということはない、当然、差異があって、責務も異なる、という、今では当たり前のことを原則として確立したものである。

この原則は、その後締結される環境や開発に関するあらゆる条約、議定書などの基礎ともなっている。昨年3月ブッシュ大統領が京都議定書を拒否した際に、その理由の一つとして、中国やインドが参加しないのは不公平と批判したが、この批判はリオ宣言のこの原則に背違する。何故ならば、中国やインドも現在、温室効果ガスを排出しているが、主要な温暖化物質であるCO2は100年前後大気中で蓄積する性質があり、イギリス、アメリカ、日本などの先進国が、過去二世紀排出しつづけてきたCO2などの蓄積総体による寄与とは明らかに差異があるからである。地球サミットで採択された温暖化防止のための国連気候変動枠組み条約の前文においても、「過去および現在における世界全体の温室効果ガスの排出量の最大の部分を占めるのは先進国において排出されたものであること、開発途上国における一人あたりの排出量は、依然として比較的少ないこと並びに世界全体の排出量において開発途上国における排出量が占める割合はこれらの国の社会的および開発のためのニーズに応じて増加していくこと」また「先進国が明確な優先順位に基づき、すべての温室効果ガスを考慮に入れ、かつ、それらのガスがそれぞれ温室効果の増大に対して与える相対的な影響を十分に勘案した包括的な対応戦略に向けた第一歩として、直ちに柔軟に行動することが必要であること」と書き込まれている。これはまさにリオ宣言の「共通だが差異のある原則」からきた考え方である。

(2)条約の締結

地球サミットの第2の成果としては、地球温暖化対応や生物保護のための条約が締結されたことである。この2つの条約は、現在および将来にわたって極めて重要な役割を果たす条約である。しかし、地球温暖化についてはこれが枠組み条約であったことから、'97年にこの条約の下で具体的な削減義務などを法的に定めた京都議定書がつくられたのである。この京都議定書にはアメリカは現在のところ離脱を表明しているが、生物多様性保護条約についてもアメリカは未だに参加していない。ちなみに、地球サミットには現ブッシュ大統領の父親、元ブッシュ大統領がアメリカを代表して参加していることは記憶にとどめておこう。(なお、地球サミット後に、砂漠化に対処するための条約と残留性有機汚染物質に関する条約も追加締結されている。)

(3) アジェンダ21という名の行動計画

第3の成果であるアジェンダ21は、国連諸機関や各種主体が取り組むべき行動計画を定めたものである。大気保全、淡水保全、生態系管理といった課題ごとの他に、地方公共団体、産業界、女性、NGO、先住民族など、およそ地球の環境保全と開発を担う主要な各種主体について、特別な記述のある行動計画となっている。特にここで強調しておきたいのは、アジェンダ21の策定過程から各主体が非常に元気が出てきたことである。NGOも企業も自治体も女性も、このアジェンダ21に書き込ませる過程でそれぞれ力を尽くしたが、その余勢は今日まで続いている。例えば、企業について言えば、環境ISOといわれるISO14000sなどの自主的な取組みが大きく動き出したし、自治体について言えば、国際環境自治体協議会(ICLEI)などが地味ながら重要な役割を果たしている。NGOはこの地球サミットを契機に国際的にも国内的にも益々大きな力をつけてきたし、女性が各方面に飛躍していく踏み台ともなった。

アジェンダ21でもう一つ特筆すべきは、先進国から途上国への資金援助(ODA)をGDP比で0.7%とする目標を再確認したことである。

このように、概観しただけでも、地球サミットはそれなりに大きなスタート台になったといえよう。ただ問題は、これが現実に地球の環境や開発をその後どう変えていったか、である。

2. 十年経っての成果は

十年経っての成果を詳細に分析するには、きちんとした解析を必要とするが、概略は表に示す。ご覧のように、人口や経済の拡大はつづいているが、途上国への経済支援割合は減り、地球環境は大きく破壊に傾いている。この十年の間に、例えば中国やインドのように、経済的に大きく発展した国がある反面、アフリカの諸国、アフガニスタンを含む中近東の国々、さらに、もうすでに地球温暖化の影響が出始めた太平洋、インド洋、カリブ海などに浮かぶ島々の状況には誠に心が痛む。

我々にとって10年間は、それなりに長い時間であるが、46億年の歴史を有する地球から見れば、まばたきする間もない短い時間。しかしそのごく短い時間の中で、これだけの大変化を、60億を越える人間が引きおこしている。この力をコントロールし、破壊のベクトルを、自然との共存へ変換し、持続可能な社会をつくっていくためには、革命以上の大きな事をしなければならない。

表 世界:この10年の変化('90-2000年)

項  目 変化量 コメント
総人口 52.8 → 60.8 (億人) 10年間で8億人(11.5%)の増加
総生産 31.9 → 43.2 (兆ドル) 10年間で35.4%増
炭素排出量 59.3 → 63.0 (億トン) 10年間で6.2%増
CO2濃度 354.0 → 369.4 (ppm) 10年間で15.4ppm(4.35%)の増加
サンゴ礁の劣化 10('92年) → 27 (%) 8年間で大幅悪化
風力発電 1,930 → 18,100 (千kw) 10年間で9.4倍増
先進国のODA(対GDP比) 0.33('92年)→ 0.24('99年)(%) 目標の0.7%からは大幅低下

3. 努力にも拘わらず、なぜ環境・開発状況は悪化したのか

おそらく、読者の皆様は不思議に思われるであろう。地球サミットからこの10年、国連も政府も企業もNGOも自治体も、何もしないでサボっていたわけではない。それどころか、例えば国連を見れば、この10年の間にいくつもの条約をつくり、毎年のように大きな国際会議を主催するなど努力はしている。日本政府も地球サミットの翌年には、その成果も取り入れながら、環境基本法を制定したのを始め、さまざまな法律、政令、計画などを作成し、実施してきている。多くの自治体も、首長を先頭に、持続可能性のためのさまざまな試みがなされている。そして多くの企業も、現状では精一杯のことをしている。NGOも国内外でさまざまな活動をし、注目される動きも決して一つや二つではない。こういう動きは日本だけではなく、世界各地でなされているにも関わらず、なぜ地球環境はその悪化のスピードを速め、全体的には改善に向かうことがないのであろうか。

私自身、この10年間ずっとこの自問自答を繰り返してきたが、今ここで言えることは、2つある。

一つは、有限な地球環境のなかで、地球環境や開発の状況を悪くする要因(特に、世界人口の増大、経済の規模拡大や効率性の追求、貧富の差の拡大など)にはまさに巨大な力が働いているにもかかわらず、それに対応してとる対策があまりにも小さいということである。私の経験と第六感を交えて、あえて定量的に表現すれば、悪くする力がトータルで100ぐらい働いているとしたら、その状況を改善しようとする力は、良く見て10~20ぐらいしかない。もちろん、地球も広いわけで、部分的に見れば、改善力が悪化力に勝っている部分もある。例えば、日本の空や川はいろんな理由でだいぶきれいになってきた。しかし、日本がきれいになった分、アジアで汚れがすすんでいる、といったことも現実なのだ。

もう一つは、地球環境のただならぬ悪化傾向に対して、相応の危機感を持たず、従って十分な対応戦略もとらずに相変わらず経済の規模拡大や効率性の追求に明け暮れる政治・経済界のリーダーの怠慢ないしは不作為である。また敢えて言えば、これほど環境の危機に関する情報が誰にでも入手可能な状態になっているにもかかわらず、まともにそれと向き合うわずかの努力すらせず、折角の情報やそれに対応する機会をみすみす失っている多くの普通の人々に対しても、私はいらだちを感じずにはいられない。

有限な地球環境をギリギリ一杯まで使い尽くしてしまった人類社会には20世紀とは全く違った価値観と方法とで生きてゆくしかないのに、過ぎ去った20世紀のやり方や夢をいつまで追い求めているのだろうか。早く目覚めて、厳しくとも必要な対策を取る準備をしなければならない。環境の破壊を阻止することができなくなるのを恐れる。