2002年5月号会報 巻頭言「風」より

『絵コロジー』を見て考える

加藤 三郎

私は今、ハイ・ムーンさんの『絵コロジー』を見ながら唸っている。唸る理由の一つは、相変わらず風刺が冴え、絵がうまいことに対するものであり、もう一つは、風刺の対象となっている私たちの時代の物凄さについてである。人も知る通り、ハイ・ムーンさんは高月紘京都大学環境保全センター教授である。廃棄物の研究者として知られ、廃棄物学会のリーダーの一人。その高月さんが、若いときから絵を好み、社会を鋭く、しかし愛をもって批判し、それを漫画として発表してきた。1990年から出してきた『絵コロジー』の改定四版が合同出版より本年3月に発行され、私の目の前にあるのはその『絵コロジー』である。

1.途方もない時代

今から300年ほど前、松尾芭蕉は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」と記した。確かに芭蕉の時代、月日はゆったり、しっとりと流れ、それは今日に比べれば変化の少ない百代の時代を通り過ぎる旅人のようであったかもしれない。しかし19世紀頃から、その過客が通りすぎる時代が変化し始め、20世紀、21世紀となるにつれて、私たちの経済社会の様子は物狂おしいほどに激変している。

その特徴は、大量生産、大量消費であり、経済効率やスピードへのあくなき追求である。これらのすべての根底には膨張してやまない、刺激しつづける欲望がある。その結果、芭蕉の時代からわずか300年ほどであるのに、もう地球の環境容量は満杯状況である。芭蕉が住んだ江戸、彼が旅した日本の各地、その姿は一変どころか百変、万変した。もし芭蕉が今、東京、大阪、滋賀にでも現れるとしたら驚き、言葉を失うほどであろうと思われる。

変化の一つとして、昨今は次々と異常気象が報告されている。本稿執筆の今日でも、地球の温暖化によりヒマラヤの氷河が溶けて氷河湖があふれるようになり、一旦決壊すれば下流域に重大な被害をもたらすようであろうと、国連環境計画(UNEP)のレポートが報道されている。その1ヶ月前には、南極でこれまで最大級の棚氷が崩壊したことを衛星からの詳細な写真がリアルに状況を伝えている。まさに我々は気候さえ変えてしまうような途方もない時代に生きているのだ。

2.鈍麻し、漂う方向感覚

そのような時代に生きている個人としても社会としても、世の中が一体どちらの方向に動こうとしているのか、また今の流れをどう評価したらいいのか、多数の人の方向感覚や評価の価値基準は鈍麻し、漂い始めているように思えてならない。

洪水のごとくあふれる情報が経済の危機、社会の危機、家庭の危機、環境の危機を警告しつづける一方で、車、コンピュータ、ゲームといった利便性を追求している多くの現代人にとって、例えば、ヒマラヤで氷河湖が決壊したのが一体危機なのか危機でないのか、南極の氷が溶け始めたのをどう評価すべきか難しい。数ある情報のなかには、そんなものは心配するなという「科学者」のもっともらしい解説も出てくる。それを見ると、「ほっ、まだ大丈夫なのかな」と思う。一方で環境専門家たちの警告をどう受け止めたらいいのか、評価は漂い、鈍っているようだ。

私たちが生きていく上で、欠くことが出来ない生産、消費にしたところで、大量生産、大量消費以外にどんな生産消費パターンがあるのか、考えるのも難しくなってしまっている。それ以外のパターンを探そうという努力も多くの人にとっては、してもしょうがない、関係のないことになりつつあるのかもしれない。

20世紀は、資本主義対社会主義ないしは共産主義の対決の時代ともいわれたが、90年代に入ってソ連が崩壊して、資本主義が勝ち残ったことになっている。しかし、その資本主義に問題はないのか、これが唯一の経済体制なのか、膨張していくグローバリーゼーションをどう受け止めたらいいのか、方向も評価もさまよっているのが今日の姿ではなかろうか。

子どもの世界にもそれ以前の世代には理解しがたいような不気味な変化が起きている。首都圏に住む知り合いの小学校教師から聞いた話だが、わずか40人足らずのクラスに多動症などの障害によって授業に満足に参加できない子どもが6人。同学年のもう一つのクラスにも数人いるという。今、子どもの世界の一隅で、一種の崩壊現象が起きつつあるが、これはたまたま親や教師に問題があるささいな出来事なのか、それとも大人世代の重大な失敗の深刻な反映なのか、その評価も、立ち向かう方向も今のところおぼろである。

3.鳥獣戯画を凌ぐか『絵コロジー』

このように価値基準が漂い、不透明な世の中にあって『絵コロジー』を見ていると、環境倫理に基づく方向感覚が明瞭に示されている。私はハイ・ムーンさんの絵を見るたびに鳥獣戯画を思い出す。鳥獣戯画は平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけての世相をサル、ウサギ、カエルなどの鳥獣に託し描いたものだという。私はハイ・ムーンさんの絵は鳥羽僧正の絵に優るとも劣らぬと思っている。まず絵がうまく、高い芸術性にいつも打たれる。そしてこの絵は、芸術性だけではなく、研究者として同時代の環境を調査し、分析した人の確かな目を基としている。しかも、人間愛とユーモアがどの絵にもにじみ出ている。ユーモアのセンスといえば、この「絵コロジー」という造語もそうだが、廃棄物を「廃貴物」という言葉に託した発想だってすばらしい。 

『絵コロジー』を見れば、どの絵も鋭い風刺になっている。現代のアブノーマリティーを鋭く指摘すること自体が優れた価値基準の提示ともなっている。鳥羽僧正が現代の日本に立ち現れて、鳥獣戯画を描いたセンスで今日の世界を見たらどんな絵を描くだろうかと、いつも想像してしまう。

鳥羽僧正も人の世を生きたのであるから、愛憎、権力、裏切り、暴力沙汰、いろんなものを見たであろう。今の時代は、モノや情報があふれているだけでなく、ミサイルなどボタンひとつで人を殺したり傷つけたり出来る時代である。その複雑さやエネルギー・物質使用量は僧正の時代のおそらく数千倍、数万倍になっていよう。そのようななかで凝視し、苦闘しているハイ・ムーンさんのほうがやはり時代を見る目が鍛えられているのではなかろうか。しかし場合によっては、鳥羽僧正の目が我々の見失った視点を照らし出してくれるかもしれない。そんな意味でお二人の競作が見られれば社会を見る目が一層深まるだろうと、『絵コロジー』を見ながら考えるのである。