2005年12月号会報 巻頭言「風」より

次世代を本気で育てる

藤村 コノヱ


2005年も残すところ後わずか。幸い今年は国内では大きな自然災害は少なかったものの、世界的には異常気象が続き、特に温暖化対策に不熱心な米国には大型ハリケーンが幾度も襲いかかりました。また国内では建築の根底を揺らがすとんでもない事件や痛ましい女児殺害事件、世界各地での内紛やテロも後を絶たず、持続可能な社会とは程遠い現実に、この先どうなるのだろうと不安は募るばかりです。

そんな中、「あなたが子や孫に残したいもの、伝えたいこと」のはがきアンケートを実施したところ、多くの方からいろんな思いが寄せられ、この国の将来を真剣に考えている人が大勢いることを改めて感じました。有難うございました。

その一方で、ご回答下さった方や会員の皆さんは、家庭や地域や職場で、若い人たちに伝える努力をしていると思うのですが、日本全体を見渡した時、一体誰が、どんな方法で、心や智恵や風景を次世代に伝えていけるのかと考えてしまいます。

伝えるべき若者は今

残したい、伝えたい、は大人の願望ですが、伝えるべき若者はどんな状況にあるのでしょうか。最近も女子高校生の母親毒殺未遂や、高校一年の男子生徒が幼友達を殺害するなどショッキングなニュースが続きましたが、犯罪白書によると、平成15年の刑法犯少年は14万4400人と前年に比べ1.9%増加。特に強盗、殺人などで検挙された数は2,212人で前年に比べ11.4%増加しており、凶悪・粗暴な非行が増えています。また、近年はフリーターよりさらに深刻な存在としてニート(Not in Education, Employment or Training)が注目されています。これは学ぶ意思も働く意思もない若者のことで、その数は2004年には64万人(厚生労働省定義)に達しています。さらに、先日ある大学の先生から、「最近は授業中に奇声を上げる学生が出てきた」という話を聞き、これまでは子どもだけと考えられていた多動症(環境ホルモンとの関連も言われています)が、ついに大学生にも現れてきたか、と愕然としました。

一方学力の低下もよく言われますが、OECDが3年ごとに行う国際調査でも、2000年と2003年を比較すると、日本の15歳児童の読解力は8位から14位へ、数学的リテラシーは1位から6位へと順位を下げ、科学的リテラシーはかろうじて2位を維持したものの、学力の低下は数字の上からも明らかです。勿論スポーツや芸術面での日本の若者の活躍はうれしくなりますが、全体的に見た場合は決していい状況にはないようです。

伝える側の教育力は

こうしたことの原因は複雑ですが、私自身は、家庭、学校、地域、そして社会全体の教育力の著しい低下にあると考えています。教育基本法の前文には、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献するという理想の実現は、根本において教育の力にまつべきである」とし、全ての根底に「教育」があることを明記しています。しかし今の日本では、目先の利益や自分たちのことで頭がいっぱいで、親も学校も、社会も、教育の本質を忘れているように思えてなりません。

家庭では、核家族化が進み、親も子も忙しい生活の中で、6割以上が「親子の絆が弱まっている」と感じています(平成13年度国民生活白書)。最近出産した若い友人が、「子育て本が大流行。どうして赤ん坊の時から、皆同じ育て方をしなければいけないのか不思議」と話していましたが、そうした本が多いのも、子育てに自信の持てない親が増え、それをまた商売に利用しているためと思われます。さらに、叱らない親も増えているようで、大学や職場でも先生や上司が少し強く意見しただけで、萎縮あるいは反発してしまう若者の話もよく耳にします。「親の背を見て子は育つ」といいますが、背を見せる時間も、見せるべき背も持たない親が多くなったということでしょうか。

そうした家庭の教育力の低下は学校への過剰な期待につながっていますが、家庭の教育不足を補うだけの余力は到底今の学校には望めません。教員をしている友人たちは、口をそろえて、教師に対する締め付け・管理が厳しくなり、教材研究の時間も含め教師に全くゆとりなどない、と断言します。学校は人間を育てるところでモノを生産する場ではないのに、ここでも経済至上主義的考え方が浸透しているようで、生命の基盤である環境同様、人づくり、国づくりの基本である教育さえも、経済の渦の中でもみくちゃにされているのが実態です。

先人の教育力に学ぼう

ところで江戸時代は、無駄の少ない循環型社会として、また町人文化の華やかな時代として有名ですが、子どもをとても大切にした時代だったとも言われます。江戸時代に日本を訪れた外国人が等しくその点に注目していたことからも伺えます。男子のたくましい成長を願う行事として端午の節句が庶民の間で定着したのも、奈良・平安から続いたひな祭りが現在の形になったのも江戸の時代だそうです。また家庭では溺愛ととれるほど子どもを可愛がっていたようですが、手習いと読書の機会を与えれば、あとは近所づきあいの中でよい子に育つ、という考え方が一般的だったようで、子育ての原点は江戸時代にあるとさえ言われています。

一方、松下村塾は明治維新という日本の大きな変革期に有能な人材を輩出したことで有名ですが、人格の修行と社会に有用な人材の育成を目指したという創設の趣旨をみれば、まさに教育の原点そのものがそこにあることに気づきます。互いの尊敬と信頼のもとに、身分の違いを超え、時代を開くための生きた学問が行われていたようです。

いずれもモノの少ない貧しい時代だったにもかかわらず、家庭でも社会でも次世代を真剣に愛し育てていたことが伺えます。

動物は次の世代を残すためだけに生きているといっても過言ではないほど、その全てをかけて子どもを育てます。それなのに人間は、物質的に豊かになるにつれ、生き物としての本来の役割さえも忘れているように思えます。しかし、次世代が育たなければ持続可能な社会などありえません。

そのためには、社会全体として真の教育を目指すことが不可欠ですが、もっと身近でできることもあるはずです。加藤代表は環境文明研究所を現代の松下村塾にしたいと考えているようですが、例えばいろんな地域で、戦後そして高度成長期を生き、そろそろ定年という団塊世代の大人たちが、その経験や生き様など学校では教えてもらえないことを若い人たちに伝えていく活動があるとおもしろいと思います。ある意味でいい時代を生きてきたのですから、楽しみながらそれを社会に還元してほしいものです。さらに身近なことでは、例えば、この年末年始に家族で昔の遊びやおせちなどを通して日本の伝統を伝えるのもいいでしょうし、家族そろって「いただきます」の意味を話しあってみる、ということでも、子どもたちにとっては新鮮なことではないでしょうか。

他人任せにせず、一人ひとりができることからやる、来年もそんな一年にしたいものです。