2006年11月号会報 巻頭言「風」より

大量生産・大量消費経済社会からの脱却を探る

藤村 コノヱ


米国カリフォルニア州の司法当局が、自動車から排出される二酸化炭素が温暖化を引き起こし、農業や健康に大きな被害を与えているとして、日米の自動車メーカー6社を相手取って損害賠償の訴訟を起こしたことが報じられました。ハイブリッド車やクリーンディーゼル車、燃料電池車など環境対応技術で攻勢をかけている日本の自動車メーカーにとっては、意外なことだったようです。しかし、どんなに自動車単体の環境対策を進めても、自動車の台数が増え続ければ、自動車から排出される二酸化炭素の総量は増えるわけですから、自動車を購入し利用する一人ひとりの責任というより、たくさんの自動車をつくり続け、売り続けている自動車メーカーに、拡大生産者責任など一定の責任が求められるのは当然とも考えられます。

いうまでもなく、地球温暖化を防止し、持続可能な社会を築くには、大量生産・大量消費・大量廃棄型の現行の社会経済システムから、適量生産・適量消費そしてリサイクル社会へと根本的なところで変えていく以外に方法がないことは明らかです。しかし、病気の治療よりも病気にならない予防が第一、出口より入り口を考えることが基本、ということは多くの人が理解しているはずなのに、現実の社会ではまだまだこの基本が認識されるには至っていません。

先日もある会合で、環境にかなり近い業務にいる企業の方から、「リサイクル技術さえ進めば、環境問題は解決する」といった趣旨の話を聞きました。実際二酸化炭素を海中に閉じ込める技術や、生分解性プラスチックの技術なども、「環境技術」として、多額の開発費用が投じられています。勿論こうした技術は部分的には環境負荷を低減しますが、大量生産・大量消費を相変わらず続けることを前提にしています。

また、ある企業研修で、「大量生産の是非を問う」と題してディベートをやったことがあるのですが、参加者から、「企業では大量生産はもうしていない。多品種少量生産である」という反論を受けました。確かに多くの企業が生産過程での無駄を省き廃棄物削減に真剣に取り組んでいますが、大量の資源を投入して生産していることに変わりはありません。同じものを大量につくるのも、多品種を少し作るのも、掛け算をすればトータルの投入資源量は同じだということは小学生でもわかることです。しかし、「大量生産はしていない」と、最後まで主張を譲ってくれませんでした。

このように、リサイクルして再資源化さえすれば、あるいはどこかで処理できれば、大量につくり続けてもいい、多品種少量生産は大量生産ではないというような意識が依然としてまかり通っており、環境技術といっても、自然の理にそった技術、すなわちハーマン・ディリーの法則(①再生可能な資源の消費ペースはその再生ペースを上回ってはならない。②再生不可能な資源の消費ペースはそれに代わりうる持続可能な再生可能資源が開発されるペースを上回ってはならない。③汚染の排出量は環境の吸収能力を上回ってはならない。)に沿った技術には成り得ていないものがほとんどです。

こういう話をすると必ず、拡大成長をやめたら企業活動が成り立たない、雇用も維持できないし税金も払えないという話が出てきます。実際企業の環境報告書などを見ても、原単位としては改善されていても、多くの企業で二酸化炭素の総排出量は増加しており、その理由は生産量の拡大によるものです。このまま企業が「拡大成長」を前提としている限り、温暖化は止められないし、有限な地球は持ちません。

「拡大成長しなければ」という呪縛から離れ、「量的拡大」から「質的拡充」へ、「成長」から「成熟」へ、そんな転換は本当にできないのでしょうか。

例えば、自動車メーカーも自動車単体の環境技術にしのぎを削るだけでなく、ある町の交通システム全体を見直し設計する。その町の規模や環境容量にみあった交通システム(森)を想定し、その中で自転車、自動車、公共交通をどう組み合わせていくか(どんな木をどう植えるか)を考え実現していく。例えば、様々な製品についても、安価にたくさんつくるのではなく、必要なものを必要なだけ作り、付加価値をつけて売る。さらに売ることだけで利益を得るのではなく、そのものの一生、維持管理や再生化で利益を得るような仕組みをつくる。循環の輪は小さく、しかし血管そのものは太く、その中を流れる血液はできるだけきれいにする。そんな社会経済システムはできないのでしょうか。

環境と経済の両立、環境と経済の好循環など、美辞麗句を並べることは簡単です。しかし、大量生産・大量消費社会そのものをどう変えていくのかを考えないかぎり、温暖化の進行は止まらないし、持続可能な社会にも成りえないし、環境資源を使って経済活動をしている企業の持続性もありえません。

京都議定書から離脱し、かつ大量生産・大量消費社会の権化のようなアメリカで今回のような訴訟が起きたことは少し意外な気がしますし、彼らの本意がどこにあるかは定かではありません。しかし、今回の訴えは、取りようによっては、温暖化対策のみならず大量生産社会そのものに切り込むものであり、弱体化したとはいえ、このような訴訟が州政府から起きること自体、改めてアメリカ社会の多様性が感じとれます。

それに比べて日本は、環境対策は一応どこでもやっているけれど、大量生産・大量消費社会についての本音の議論には至っていない、というより議論を避けている気がします。同時に、「木(個々の環境技術)」を見るのは得意だけれど、「森(持続可能な社会像)」を見るのは不得手な日本人の特性、戦略の無さも垣間見え、これでは、環境立国日本の名が廃るのではないかと心配です。

安部新政権でも環境は全く無視され、「成長」のみが声高に言われていますし、新しい環境大臣にいたっては「環境税は難しい」とか「できることからやる」など全く危機感が感じられません。

外圧に弱いといわれる日本ですが、今回の訴訟を契機に、是非、大量生産・消費社会は持続的でないことを前提とした本音の議論を始めてみようではありませんか。これから生き残れる企業は、常に森を見ながら、そこにいたる道にコツコツと木を植えていくところだと思います。そして会員企業の皆さんには、私たちと共に、智恵と勇気を持って、その先頭を走ってほしいと願っています。それが長期的にはその企業と社会の発展につながると確信しているからです。