2007年8月号会報 巻頭言「風」より

洞爺湖サミットへの課題

加藤 三郎


6月に開催されたハイリゲンダム・サミットでは、メルケル議長の強いリーダーシップに加え、初参加ながら安倍首相が、世界の温室効果ガス排出を2050年までに半減というポジションを明確にしたことによって、2013年以降の道筋へ光が見えてきた。約半世紀先の目標ではあるにしても、「半減」に日本がコミットし、推進役の一翼を担ったことは、評価出来る。

来年7月に開催される次回の洞爺湖サミットにおいては、本年9月の国連総会での首脳級の特別会合や、12月にインドネシアで開催される国連会議での交渉結果も踏まえた対応が、首脳間で改めて協議されることになる。日本の首相の采配ぶりが試されるだけでなく、温暖化の脅威へ立ち向う世界の結束が得られるかどうかの重大な会合となる。その意味でも、一年先の洞爺湖サミットに向けて、全力を挙げて準備することが求められる。

さて、日本はこれから、何を準備すべきであろうか。日本の首相は議長を務めるが、そのことは、意見を異にするであろう首脳たちの強い主張を聞きながら、日本にとっても世界にとっても最良の解答を見つけ出すという叡智が求められる。そのためにも、洞爺湖で最小限どこにたどり着くべきかといった方向感覚が必要であろう。つまり世界が「半減」するためには、先進国はどの程度、どういうテンポで削減していくのか、その際、中国、印度など途上国はどのように排出抑制に加わっていくべきかについて青写真を持たねばならない。専門家は、世界が半減するためには先進国は6割から8割程度の削減、人によっては9割程度の削減が必要だと主張している。

何故、先進国にそれほど多くの削減量が必要かというと、1992年地球サミットで合意された「共通だが差異ある責任原則」から出てくる。CO2については、ひとたび放出されると100年以上大気中に滞留するので、特定時点での排出量もさることながら過去からの累積量が問題となる(表参照)。過去からの累積分を含め、先進国がより多くの責任を負うことは、当時のブッシュ大統領を含めて地球サミットで合意した原則に基づく。先進国の削減割合を洞爺湖で決める必要はないと思うが、相場観を議長は持っていなくてはならない。

その先進国の中で日本自身はどうするのかについても見通しが必要だ。具体的には、2020年、30年頃までに日本はどの程度まで削減するのかについて腹積もりを持っていなければ、議長は務まらないであろう。

削減の手段についても見通しを持っていなければなるまい。本欄で繰り返し述べているように、日本の発展のためにも、また企業が競争力を高めるためにも、排出量に対する規制措置が必要である。私はかねてから、大気汚染防止法によって規制すべきだと説いているが、この議論を早急に始める必要がある。また、環境税や排出量取引などの経済的手法についての青写真も持たなければなるまい。

ちなみに、日本経団連と一部の有力な企業グループは、排出量規制、税、排出量取引の3つの政策手段には断固反対のようだが、日本経済と企業の持続可能な発展のためには、正しい選択だとは私には到底思えない。誰しも、規制や税は好きでないことはよく理解できるが、経団連などもよく自慢する日本の環境技術や省エネ体質は、積年に亘る公害規制や石油危機の際の価格の突然の高騰などの試練を克服するため企業が真剣に努力した結果、獲得したことは、多少でも過去を知る人にとっては自明のことである。

イギリスの著名なエコノミスト、ビル・エモット氏も、地球温暖化については「痛みなくして成果なし」と題する朝日新聞の月曜コラム(07年6月25日付)において「政府が大幅削減の十分に厳格な目標を設定しない限り、人々は有害物質を減らそうとはしない。そして企業は当然ながら、そうした削減に猛烈に反対する圧力を政府に掛ける。」と述べ、つづけて「人々の行動は痛みを伴わなければ変わらないだろう。日本を含めた各国政府が気候変動問題に関して言うことは、痛みについて正直に話し始めるまでまともに受け止めるべきではない。痛みとは、化石燃料や有害物質を出す原因への高い税金と、厳格な規制である。」と指摘しているのは適切である。ちなみに私自身は、同じことを「良薬は口に苦し」と表現している。

このように、これからの一年の間に最小限でも上記のような重要事項についての基本方針を持って当らなければ、議長役は務まるまい。風光明媚な場所貸し屋に留まって、喧々諤々議論するのは、ブッシュさん、メルケルさん、サルコジさん、ブラウンさんなどで、日本の首相はただそれを拝聴しているということであってはなるまい。

日本では、例えば環境税を入れるべきか否か、排出量取引をすべきか、せざるべきかといった重要な問題もこれまでのやり方でいくと、利害を異にする関係省庁ごとに設置されている審議会での議論に委ねられる。ここでは、様々な意見が出されて、結局何も決まらないであろう。環境税について言えば、私が環境庁にいた14、5年前から議論はしているが、今日まで、政府としての結論は何も出ていない。このような大きな政策の選択を関係省庁とそれに属する審議会に任せていては、到底ブレイクスルーは出来ないことは、これまでの実績から明らかだ。ブレイクスルーは、政党と政治家そしてそれを支える国民がこの問題を日本と世界に関わる重大な問題として本気に受け止めて、国会が本腰を入れて審議を開始出来るかどうかにかかっている。

先日、行われた参議院選挙へ向けての各党の公約に私は一通り目を通した。各政党とも地球温暖化には触れてはいても、年金問題などに隠れてまだ本格的な政策課題とする意気込みは見えてこない。しかしながら、従来の緩慢な政策決定方式に委ねていたら、来年の洞爺湖サミットにおいて、議長国である日本は意味のある青写真を提示出来ないし、首脳間の厳しい議論を上手くリード出来るとは思えない。

まさに政党や政治家の出番がきたわけで、1970年末のいわゆる公害国会が、14本の公害立法を成立させ、その後の公害行政の基盤を作ったように、この秋の臨時国会から来年のサミット前の通常国会までをいわば「温暖化防止国会」とすべきであろう。なぜなら、地球温暖化問題は、単に環境・エネルギー分野の政策に留まらない。税制も教育も外交も交通も農林水産も都市構造も幅広い政策分野を包括する大問題である。この温暖化問題をテコにして日本と世界の持続可能な社会作りに一歩踏み出してほしいと強く願っている。

洞爺湖サミットについては、もう一つ言っておきたいことがある。安倍首相は、環境サミットの場を日本が誇る公害防止や省エネの技術を披露する場にもするお考えのようである。しかし私は、この場は技術のショウウィンドウだけにするのでなく、日本人が長年にわたって培ってきた様々な知恵、つまり「足るを知る」「自然との共生」「もったいない」「和を尊ぶ」といった伝統思想も世界に訴えかけなければと考えている。

なぜなら日本の伝統的知恵は、半閉鎖的な社会の中で、平和裡に持続的に生きるために培ってきた知恵である。一方、欧米が持つ知恵は、新大陸の発見、ニューフロンティアの開拓といった拡張型競争社会の中で築いてきた知恵である。しかしながら、世界の人口が遠からず70億にも達し、環境制約とともに、資源エネルギーの面からも各種の限界が目立ち始めた世界の中で、日本の知恵はこの新しい状況に役立つはずである。(この点については、本誌前号での大井玄先生のご所見も参照願いたい。)

洞爺湖サミットは、技術力だけでなく日本の知恵や哲学を静かに披露する場でもあってほしいと私たち願っている。