2008年2月号会報 巻頭言「風」より

温暖化における「公平」とは

加藤 三郎


京都議定書は、日本を舞台に締結されたことで、多くの日本人は誇りに思っているが、中にはこれを安政時代の不平等条約に匹敵する欠陥条約との批判が未だに絶えない。一部からとはいえ何故これほど非難されねばならないのか、私の理解では、3つほどの理由があるようだ。

世界最大の排出国・アメリカが飛び出してしまったような条約は、欠陥。また、中国やインドなどの発展途上国には削減義務が免除されているのは、不公平というのが第一。2つ目は、日本は世界一の省エネ国であり、「乾いたぞうきん」状態にあるにも拘らず、さらに削減を求められるのは、不公平という議論。3点目は、1990年を基準年にしたのは、EUの「陰謀」という意見。何故なら日本は90年までに、徹底して省エネしたが、EU諸国は90年以降、東西ドイツの合併や、北海からのガス採取などによって、大幅な削減の余地を残して、有利に基準年を設定したとの主張。

上記のような考え方や主張に対し、今回も私の考えを明確にしておきたい。

まず第1の点に関して、米国が脱けたのは京都議定書の欠陥ではない。京都議定書はクリントン政権の賛同の下に97年12月に締約された。しかし2001年にブッシュ政権が誕生すると、京都議定書から離脱したのであって、欠陥があるとすれば、議定書にではなく、ブッシュ政権の環境政策にあると考えたい。

また、中国・インドなどに削減義務が課されていないのは、地球環境悪化の責任は、先進国にあるのか途上国かという国連における息の長い論争から出てきた一つの結果である。

1972年の国連環境会議の時から、地球の環境破壊は先進国の経済活動に原因があり、途上国は被害者であるという議論が続いてきた。この論争に対する決着は92年の地球サミットで採択されたリオ宣言に盛り込まれた「共通だが差異のある責任原則」である。その中身は、地球環境の悪化に対しては、人は世界中どこにいても一定の責任を共通に担うが、全く同じというわけではない。地球環境に悪影響を与えた寄与度に応じて責任を持つべきだという原則である。この原則は、92年採択の気候変動枠組み条約でも、その5年後の京都議定書においても、書き込まれている。しかも、リオ宣言にはアメリカも賛成しており、その時の大統領は現ブッシュ大統領の父親である。

従ってブッシュ大統領が京都議定書では中・印などが削減義務を負っていないのを離脱の理由の一つに挙げたのは、この問題に対する長い経緯や彼の父親自身が支持した政策から見ても私には納得いかない。

この原則に加えて、CO2の場合は、もう一つ特別な理由がある。CO2は、大気中に排出されると、少なくとも数百年は大気中に滞留する。このことは、今日の大気中の約380ppmのCO2は、今日排出されたものだけでなく、100年以上前から排出されたものの一部がまだ残留していることになる。つまり、累積量が問題となるが、その8割近くが先進国に起因すると推計されているため、先進国がまず対応し、少し遅れて途上国も責任を負うというのが国際法上確立された考え方である。

2点目の日本は世界一の省エネ国という「乾いたぞうきん論」もよく聞かれる。実際、GDP対エネルギー消費量で言えば、確かに日本はトップクラスである。しかし、この数字は過去10年ぐらいあまり改善しておらず、逆に欧米が熱心に対策を取ってきた結果、かなり良くなってきている。日本は世界一だと言っていられる時代は終わりつつある。

むしろ国際的に問題となるのは、全く別の観点からの公平論だ。およそ「公平」を言うのであれば、どの国の人であれ、一人当たり許容される排出量は、同じであるべきという考え方がそれである。これでいくと、現状で、一人の日本人はインド人の10倍、中国人の3倍程度温室効果ガスを排出している。アメリカ人に比べると半分だが、ヨーロッパの主要国とは、同じレベルである。先進国であれ、途上国であれ、一人の人間の価値に差がないと考えると、メルケル首相が言うように、将来的には、どの国の人であれ許容排出量は、年間2t程度にするのが「公平」という事になる。日本は、一人当たり10t出しているので、2tという将来のレベルに向って格段に努力しなければ「公平」とはならない。

さらにもう一つ。公平に関して、国際的に問題になり得るのは、日本の排出量の3.8%に相当する1300万炭素トンの森林吸収分の上限値の問題だ。これは、日本の批准促進のために一つの妥協がされて、日本の森林面積に比べるとかなり大幅な上限値が与えられている。ちなみに国土面積の非常に広いロシア、カナダ、日本とほとんど同じドイツ、あるいは少し小さいイギリスに与えられた上限値と比較すれば、それこそ不公平と思われるぐらい日本が大きめの数値になっている。だから、「乾いたぞうきん」論ばかり振り回していると、すぐに足元をすくわれるのが心配だ。

後に90年を基準としたのはおかしいという説に対しては、世界の温暖化対策の歴史を考えればすぐに分かる。IPCCが結成されたのが1988年。条約交渉の開始は90年。温暖化条約が出来たのが92年。その条約は、「先進国は2000年までに1990年の排出水準に戻す」のが骨子となっており、この段階ですでに90年が基準年となっている。京都議定書は条約の下の議定書だから、90年を基準とするのもごく自然で、EUの陰謀でもなんでもない。福田首相はダボス会議でその見直しを求めたが、国際合意になるのは難しいだろう。

このように「公平」論議も、独りよがりの主張では、世界の舞台では通用しない。日本は、2013年以降に向けて経団連も経産省も正々堂々の正論を展開すべきである。