2008年7月号会報 巻頭言「風」より

環境問題が育てる「公共」意識

藤村 コノヱ


5月24日から、神戸でG8環境大臣会合が開催されました。大臣会合の方は期待されたほどの成果が出なかったようですが、その前後には環境大臣会合関連イベントとして、「NGO・NPO国際シンポジウム・交流の広場」が開催され、環境文明21も関西グループのご協力でブースを設置したり、洞爺湖サミットに向けての政策提案を行いました。また25日には、日本の持続性の知恵が日本の環境政策や環境技術、環境経営の基盤となってほしいという思いから、「日本の持続性の知恵を世界に発信しよう」シンポジウムを開催しました(詳細は本誌をどうぞ)。

交流の広場では、「市民から動く、地域から変える環境に配慮した社会経済の仕組みとライフスタイル」と題した分科会が開催され、「一人1日1kg削減」といった個々の努力だけでは到底温暖化は防止できないこと、NPOの活動も普及だけでなく仕組みを変える活動をもっとやっていこうという提案が多く出され、政策提言活動を展開している当会としても、仲間が増えたといった感じでとても心強く感じました。

ただ残念だったのは、環境大臣会合など政府機関の会合場所とNPOの会場がかなり離れていたことで、「仕組みをかえる」重要な役割を担う政府と地元NPOとの交流が皆無に等しかったこと、海外からの参加者に日本のNPOの活動を知ってもらう機会が少なかったことです。警備の関係でしょうが、NPOの力を活用して外交・国内政治共に有利に展開する欧米と比較して、日本政府のNPOの可能性に対する認識の程度がよくわかる会場設営だったように思います。

ところで仕組みを変えるために、私たち市民・NPOに具体的にできることは何か、と言えば、地方自治体レベルでは意見募集や公聴会、審議会への参加(最近公募で市民委員を募集する例も増えています)、さらにそれらを積み重ねて条例を作ることなどが考えられます。また国政レベルではパブリックコメント、審議会への参加、そして市民立法などがあります。しかし、日本ではこうした活動は一部の熱心な市民・NPOがやることであり、基本的には制度や仕組みは政治家や官僚がつくってくれるから自分たちには関係ないという意識が強いのが特徴です。選挙のときだけの主権者とよく言われますが、その選挙の投票率さえも世界的には恥ずかしいほど低く、また私たちのように政策提言型NPOを支援する市民も少ないのが実態です。そのため政策提言型NPOの数も減少傾向にあります。

その要因は複合的だと思いますが、一つには市民の「意識」とそれを形成した「教育」にあるように思います。戦前の教育を受けた大人たちには、これだけ政治家や役所の不祥事が続いても、依然として「お上意識」が根強くあるようです。内心はそうではないのかもしれませんが、批判や文句は言っても、変えるために実際に動こうとする人はわずかです。一方戦後の民主主義教育を受けたはずの若者には「公共意識」が欠落していて、政治や社会的なことには無関心で、偏った自己実現を追い求める傾向が強いようです。勿論そうではない大人や若者がいるからこそ、何とか日本は持ちこたえているのでしょうが、それすらも危機的状況にあるのではないでしょうか。それに一見異なって見える「お上にお任せ意識」と「公共意識の欠落」も実は、日本社会には「公」と「私」しか存在せず「公共」が存在しなかった、というより「公共」を支える人を育ててこなかったという意味では同じではないかと思うのです。

国際政治学者の長坂寿久氏は著書の中で、「明治政府は近代化国家建設に当たり、「Public」を意識的に「公共(公と共に)」と訳し、「Public」のことは政府が全て行なうから国民は関与しなくていいという意味にすり替え、それをもとに憲法や民法などを制定し、倫理を規定し、社会の仕組みが作られた。日本人は、公共のことに関与しなくていいという仕組みと教育の中で明治以降生かされてきた。」と述べています。そして戦前の教育の反動から戦後教育では「公」より「私」に重点を置き換えはしたものの、「公共」についてはあまり教えてこなかったのではないでしょうか。

環境教育は私のライフワークですが、それは究極的には真の民主主義教育だと考えています。学校やいろんな場で学んだことを自分の暮らしの中で活かすだけでなく、地域や社会を変えるために役立て、必要に応じて仕組みを変えることにも参加する、そういう人が増えることでよりよい制度や政策が作られ、市民によって支えられる持続可能な社会が実現できると考えています。そうした意味で環境教育にはこれまで日本社会がおろそかにしてきた「公共」を担う人材を育てる役割もあると思うのですが、この環境教育さえも、単に知識を教え体験学習をさせることに止まっているケースが多く、本質的なものには至らず伸び悩んでいるのが実態です。

もう一つの要因として、市民・NPOが仕組み作りに参加したいと思っても、その仕組み自体が整備されていないことです。パブリックコメントや審議会などで意見をいっても、それは「聞きおきます」「参考にさせていただきます」の一言で、実際の政策や法律に反映されることはごくわずかです。環境文明21でも環境教育推進法の成立に向けては国会へのロビー活動など積極的に行いましたが、我々の意見が立法過程で正当に取り上げられることはわずかでした。同様に、NPO提案の議員立法で成立したフロン回収法でも状況は同じだったようです。前述したように、公共は全て政府・官僚が行うという明治以降の流れの中で、市民・NPOの言うことなど聞く必要がない、そんな市民は育ってほしくないと内心考えている政治家や官僚が、市民・NPOの意見を反映させる参加の仕組みなど作ってくれるはずはありませんし、口うるさい市民など育ってほしくないわけですから、真の民主主義教育が日本に根付いていないのも当然と言えば当然です。 

しかし、時代は大きく変化しています。特に温暖化をはじめとする現在の環境問題は、私たちの暮らしや経済活動と深くかかわるものであり、これを解決するにはこれまでのような縦割り行政による画一的な手法や制度では到底乗り越えることはできないのは明らかです。それに、官僚や政治家は法律や政治の専門家かもしれませんが、生活や経済活動の専門家は私たち市民ですし、問題をいち早く察知するのも現場で生きる私たちです。生活や経済活動の専門家である私たち市民が互いにつながり、NPOとして法律や政治の専門家である官僚や政治家と共に、市民のルールとして制度や政策を作っていくしか、この難局を乗り越える方法はないと思うのです。

先日NHKの番組で、最貧国といわれてきたバングラディシュが今とても活気づいていて、その原動力は貧しい人たちであるというのがありました。彼らは言います。「国も政府も当てにはならない。だから私たち自身で努力する。私たちが頑張れは、日本よりもっと豊かになれる」と。政治や官僚がだめだから、市民が頑張るのではなく、市民としての誇りや責任として、自らの生活と国を立て直す、そんな気概を私たち日本人は彼らから学ぶ必要があるようです。深刻化する環境の危機が私たちの公共意識を育て、政府・行政システムの転換を促すチャンスでもあると思うのです。