2008年8月号会報 巻頭言「風」より

「迷走」を越えて

加藤 三郎


「中央公論」7月号の温暖化問題特集に、私は「温暖化への挑戦こそが日本と世界を元気にする」と題する論文を書いた。書き終えて編集者にどのような特集になるのか問うたところ「迷走、地球温暖化大論争」と銘打って、養老孟司さん、宇沢弘文さんなど多様な論者が登場するとの答え。書き手の選択は編集者の判断であるが、タイトルに「迷走」とあるのが気になった。

雑誌が刷り上がって、他の論者の文を読んで初めて、「迷走」と編集者が掲げた理由がわかった。「環境問題ブームに騙されるな!」と題し、養老さんと中西準子さんが対談しているが、私には、環境問題に対する真剣さの感じられない放談としか読めなかった。宇沢さんの話は「地球温暖化への経済学的解答」だが、ご本人の持論である「比例的炭素税」のことが中心で、排出量取引については、「割り当てを超えて排出量をカットしたとき、それを「排出権」と称して、あたかも自らの努力で獲得した私的な財産であるかのようにして、マーケットで売買して儲けようという、人間として最低の生きざまです」と切って捨て、この方法では排出量が「全く減らない。逆に増加する傾向すらみられる」と述べているのは、はなはだ納得がいかない。

「『幻想の環境問題』が文化を壊している」と題する武田邦彦教授の論文に至っては、「幻想としての環境問題を捨て、二酸化炭素を削減するといういわゆる『温暖化対策』を中断し、日本はその歴史的、地理的、民族的立場から、断固とした路線を敷かねばならない」、「国民をいじめるために政治があるのではない。だから石油のある間は、より積極的に石油を使うべきなのだ。廊下の電気を消したり冷房温度を上げたりして明るい気分を破壊しては明日は生まれない。」とまで述べているのだ。

このような文章を読んでいると、なるほどこれは「迷走」である。私としては反論する気すらも起らないが、著名人が一流のメディアでこのように発言し、また武田さんや養老さんの環境に関する本も沢山売れているとのことなので、彼らの主張が日本の社会で一定程度受け入れられている基盤は何なのか考えずにはいられなかった。

私は、この疑問に対して、3つの仮説を立ててみた。第1の仮説は「日本人の間では、科学、特に温暖化の科学に対する信頼が高くない」、第2は「温暖化はまだ先の問題で、政治はまずは足元の経済問題に取り組んでほしいと多くの人が考えている」、そして第3は「温暖化が(一部の学者が主張するように)心配するほどのものでなく、自然現象であるなら、自分は面倒なことをしなくても済むし、努力しないでいたウシロめたさも救われると少なからぬ人が考えている」というもの。

まず第1の仮説に関しては、2006年8月号の本欄においても、東大の渡辺正教授の「温暖化対策について政府は何もしないのが最善」とする趣旨の論文に対して、その社会的責任を問うたように、科学者であれ、誰であれ、もちろん私を含め、その信ずることを述べる自由は常に保障されねばならないが、同時に、発言する以上は、その社会的責任を問われることも常に覚悟しなければならない、と述べた。

科学が温暖化のすべてを解明したわけではないが、20世紀後半以降、温暖化が確実に進行していること、その原因は人間が引き起こした可能性がかなり高いことは、国連が組織したIPCCにより、厳密な科学的プロセスを経て辿りついた結論の核心だ。これらの結論を支持するからこそ、IPCCにノーベル平和賞が与えられ、また、洞爺湖畔に大統領・首相が集まって、真剣に議論しているのだ。もし温暖化が起こっていない、ないしは原因が人間活動とは無関係の、宇宙線や太陽の黒点活動によるというのであれば、なぜ、世界の首脳が洞爺湖まで来て温室効果ガス排出の半減などを議論する必要があろうか。そのような長年に恒る努力を無視して、地球の寒冷化が始まっているとか、CO2原因説は完全に破綻したと述べている「学者」らは、将来世代に対し、どのように社会的責任を取ってくれるのかが私には気になる。

それにしても、科学が私たちの間で十分な力を持ち得ていないのは何故なのだろうか。ヨーロッパは近代科学を「創った」地域であればこそ、人々の科学に対する信頼も厚い。一方日本は科学を「学んだ」国である。私はその差を強く感じる。だからエセ科学も日本ではそれなりに力を持つのではなかろうか。

評論家の立花隆氏は、「現代という時代を過去の時代とくらべたとき、いちばん大きな違いは何かというと、この時代が基本的にサイエンスとテクノロジーによって支配された時代だということです。(中略)現代社会において、それほどサイエンスとテクノロジーが中心的な役割を果たしているというのに、文系の人の知識は、驚くほど低い水準にあります。特に、高校で文系の人に対する理科教育の水準が切り下げられてから、また文系の入試で理科の科目がほとんど無視されるようになってから、それはあきれるほどひどいものになっています。これはとんでもないことです。現代の経済が科学技術によって支えられていることを考えたら、ほとんど、日本を滅ぼすに等しいことといえます」と警告しているのは傾聴に値する。この「弱点」の故に、温暖化の科学に対する国民の認識が定まらないのではなかろうか。

第2の仮説に関しては、今日の経済は、化石燃料を駆動力とした大量生産・大量消費により、規模を成長させるのが大前提になっている。大量に物を作り、大量に消費しなければ、日本中がシャッター街になってしまうと思っている人は多い。従って、環境問題に関心は持ち知識を持ってはいても、政治に本格的な温暖化対策を優先的に実施してほしいと言うことにはならないようである。

本欄でも何度も触れたように、国民の政治に対する政策優先度を、読売新聞社の世論調査を通して私は経年的にウォッチしている。昨年2月にIPCCの最新知見が出て、メディアが温暖化の脅威を大々的に報道した結果、国民の政治に対する要求に変化が生じたかどうかを注視していたが、この1年も相変わらず、景気対策、雇用、年金、福祉のような経済生活に係わるものが主であり、環境対策の強化を求める意見は、10位前後でほとんど変化なしである。

然らば国民は環境問題に関心がないのかというと、そのようなことは全くなく、長期的な課題としては、環境問題に大きなウエイトを置いていると私は考える。これも同じ読売新聞の調査で、憲法改正問題のどこに注目するかについての世論調査を見ると、過去10数年、環境問題にかなり関心が高く、最近では、第9条問題に次ぐ高さになっている。

このことは何を意味するのであろうか。私の解釈は、国民は環境問題について高い関心と知識を持ってはいても、これを長期的な課題と位置づけ、現内閣にすぐに取り組んでほしい課題としては考えていないということである。景気回復、雇用、年金といった経済問題が高いプライオリティを得ているのは、国民の強い願望の反映だが、その結果、景気の源泉と信じている大量生産・消費に依拠して成長する経済のあり方に、根本的なメスを入れてほしいと要求するところにまでは至っていないのではなかろうか。だから、このような国民感情を反映した論説が今は一定の支持を集めるのではなかろうか。

第3の仮説に関しては、やはり、国民の一人ひとりが、自分で学び、調べ、考え、それに従って行動するしかない。情報は錯綜し、「学者」たちは勝手なことを言って、「迷走」気味だが、メディアに飛び交う説に安易に寄りかかるのではなく、納得できる意見を見極めてゆくしかなかろう。市民にとってはシンドイことかもしれないが、自分たちの生きる基盤である環境を護るためには、市民も責任の一端を担わなくてはならないのだから。

さて、ここまで考えてくると、今後、日本が目指すべき社会は「低炭素社会」というよりは、20世紀型の化石燃料を駆動力とする文明から脱化石と省物質を基調とし、自然環境や伝統的知恵とも調和する文明、つまり「環境文明社会」ということになろう。その設計図はこれから書いてゆくところだが、少なくとも、価値観から制度(その中には税も憲法も含まれる)、教育、働き方、エネルギー、食と農、交通、都市・農村構造など、すべてを大きく変える大改革となろう。