2008年12月号会報 巻頭言「風」より

「環境文明」という文明

加藤 三郎


私は学生時代から公害問題に関心を寄せ、大学と大学院で、汚水処理技術を勉強したのち、厚生省に設置されて間もない公害課で公務員生活を始めた。昭和41年(1966年)4月のことである。それ以来、年を追うごとに深刻化してきた産業公害への対策最前線で奮闘してきた。主として大気汚染対策に取り組んだが、1970年代の後半になると日本の公害問題もかなりコントロールできるようになり、OECD環境委員会から、「日本は公害との戦いに勝った」と評価されるまでになってきた。その間、中央や地方の行政はもとより、政治も企業も市民団体・被害者も、そして法廷さえ大奮闘したが、当時の対策の特徴を言えば、政治・行政による規制と経済的手法の活用並びに企業による技術革新や環境産業の振興と言えよう。これにより、さしもの激しい公害問題を短期間のうちにかなり制御することができたのである。

しかし、80年代から新しいタイプの環境問題が出てきた。オゾン層の破壊、酸性雨、温暖化、熱帯林の減少といった一群の地球環境問題である。このうち私自身はまず酸性雨、そして89年から役所を辞める1993年までの間は、温暖化問題を直接担当した。特に温暖化対策に腐心していると、それは若い時に経験した産業公害対策とは性質も方法も違うことに気がついたが、その違いが何であるのか明確に認識することは出来なかった。ただ、地球環境問題は規制や技術革新だけで乗り切れる問題ではなく、「文明の病」だと考えるようになった。(なお、「文明」とは、ある時代や地域に関し、その政治、経済、社会、文化など一切を包括した社会のあり様そのものと考えている。)

地球サミット(1992年6月)での成果を反映した形で日本政府が環境基本法案を作成し終えた段階で、私は役所を辞めると直ぐに、この文明の病の正体を探り、環境と文明との関わりを心ゆくまで、自由に考える拠点として「環境・文明研究所」を個人事業所として設立した。同時に多くの仲間と一緒に考えるべく「21世紀の環境と文明を考える会」を任意団体として立ち上げた。この段階では、私の意識は地球環境問題に集中していたが、その環境・文明研究所を2年後に株式会社にして登記する際、司法書士から「・」はよくないと言われたので、環境文明研究所に渋々改めた。この段階では「環境文明」という一つのジャンルがあるとは考えていなかった。さらにその4年後、当会をNPO法人化する際、名称を「環境文明21」に短縮したが、この段階でも、環境文明という文明があるとは考えず、単に「環境と文明」の短縮形としてしか考えていなかった。

しかし、90年代の半ば以降になると、環境の悪化と並行して、社会の劣化が目に余るようになってきた。バブル経済が崩壊し、経済が急速に悪化しただけでなく、政・官の不祥事の頻発や青少年の犯罪の増加など、社会のタガが目に見えて緩んできた。私たちは持続可能な社会を求めてこの会を設立し、運営してきたが、私が当初、重点を置いていた環境以外にも、経済そして地域、家庭、教育、働き方などの人間社会の要素も、持続性を保つ上では同様に重要だと気がついてきた。

この認識の変化には、当初からの仲間であり環境教育の専門家である藤村コノヱさんの影響が大きかったように思う。彼女は「たとえ環境問題がないとしても、今の社会のあり様では、とうてい持続可能ではない」と言い切っていたからである。このようなこともあって、経済や人間社会なども私の視野の中にも大きく入るようになってきた。

一方、今世紀に入ると地球の温暖化問題は深刻化し、その科学的知見も着実に積み上げられてきた。数次に及ぶIPCCのレポートは、地球温暖化が人類社会の将来に重大な脅威となるとの警告の声を一段と高めてきた。そのようなときに、イギリスのブレア政権から「低炭素経済(low carbon economy)」という言葉やコンセプトが出てきた。私自身も早速イギリスを訪問し、目指そうとしている低炭素経済の概要を本欄01年11月号で「低炭素経済を目指すイギリス」と題して紹介している。

イギリスの環境政策の方向性を「低炭素経済」という簡明な旗印で表現し、その政策的な中身として排出量取引と気候変動税という名の環境税を導入したことに私は大いに感心した。この低炭素経済と言う言葉は多くの所で使われることになり、ほぼ同じ意味で「低炭素社会」という言葉も使われるようになってきた。日本では、国立環境研究所の西岡秀三さんらが中心となって、低炭素社会について鋭意研究を重ね、その成果を次々と発表して大きなインパクトを与えているのはご存知のことと思う。

確かに、温暖化問題に対処する社会の旗印として「低炭素社会」と表現することに何の違和感もない。しかし、福田前首相のように「低炭素社会を目指す日本」と言われてしまうと、それはちょっと違うと思うようになった。何故なら、日本が目指すべき社会は、経済も人間社会も、そしてその基盤となる環境のいずれも持続可能にすることが必要であり、如何に大切とはいえ、低炭素(CO2の排出を少なくする)にするだけでは足りないと思ったからである。 

然らばそのような社会をどう表現するのが適当か。もちろん「持続可能な社会」でよいが、それだけでは重要性のポイントが薄まると思うようになった。なぜなら太陽光や空気や生き物のように生活や経済活動に欠くことの出来ない基盤でありながら、長いこと軽視され、なおざりにされてきた環境。その結果、気候変動のような環境の悪化は、人類社会の現在及び将来に極めて大きな被害をもたらしかねないことを科学が明らかにした以上、環境の保全を主軸に据え直した新しい文明、すなわち「環境文明」という文明があるのではないか、またそれを構築する必要があるのではないかと考えるようになった。

「環境文明社会」というと私たちの会の名前を冠した社会であるので、我田引水とお叱りを受ける可能性もあり、それを避けねばならないとは思いつつも、人間社会が将来にわたって生きいきと生存を続けていくためには、その生存と活動を許す基盤である環境をこれまで以上に意識し、重視し、環境保全を通して経済や生活を再生していく新しい文明社会を作る必要があると考える。

ただ、この「環境文明」社会とは、どんな社会なのか、着想したばかりであり、そのコンセプトも具体的な姿も未だ明瞭に描けていない。社会の関心も引いてはいないが、私たち自身はその特徴を現時点では次のように考えている。すなわち、政治的には市民が主体的に参加する民主主義、経済的には節度ある市場主義を社会の骨格とし、物質的には脱化石燃料と省物質を追求し、再生可能な資源エネルギーを積極的に活用し、水、森林、土壌など生き物を含む自然環境を持続的に利用する仕組みを組み込んだ社会。文化的には教育に重点を置き、子や孫を安心して育てられる社会、そして伝統と多様性を尊び、個性の違いに寛容である社会。社会経済的には皆がほどほどの生計を営み、あらゆる人に職を保証し、働くことに喜びや生き甲斐が持て、弱者には福祉やセイフティネットを用意し、地域的にも適度に分散されており、農林水産業の活力を維持できる社会。そのような社会を「環境文明社会」と今は考えている。

幸い、この環境文明社会を掘り下げる作業に対し、三井物産環境基金から新たに助成金を得られることとなったので、これから3年間の予定でじっくり腰を据えて検討したいと考えている。会員の皆様も、新しい文明の必要性はご理解いただけると思うので、どうかこの作業に対しても、様々な形で応援とご教示を頂きたいと願っている。

皆様、どうぞよいお年をお迎えください。来年も一緒に頑張りましょう。