2010年9月号会報 巻頭言「風」より

「成長」よりは「持続」する経済

加藤 三郎


先月号の本欄で藤村コノヱさんは、幸せにつながる消費について論じた。同じ思いで、私は経済成長に焦点を当て論じてみたい。

バブル経済が崩壊すると、日本経済は長期に亘って不況に陥り「失われた20年」にならんとしている。かつて500兆円を超えていたGDPも、470兆円前後に落ちており、名目だけを見れば明らかにマイナス成長。ただ、日本の場合、物価も下落しているので、実質ベースでみると、かろうじてプラスとのこと。

それにしても、ここ数年、与野党問わず、政治家は口を開けば、成長、成長と語り、またメディアに登場するエコノミストも政権には成長戦略がないとずっと言い続けている。そのせいか、本年6月8日に発足した菅直人政権も「強い経済、強い財政、強い社会保障」を標榜し、早々と新成長戦略なるものを打ち上げている。その冒頭部分で、リーマン・ショック後の景気後退から日本経済をよみがえらせ、本格的な回復軌道に乗せて、20年度までで名目3%、実質2%を上回る成長を目指すとしている。しかし、日本の人口は、減少局面に入り高齢化が急進するなかで、2%の成長が可能かどうかというよりは、何故そんなに成長する必要があるのだろうか。

とは言っても、成長という言葉そのものが悪いわけではない。例えば、小さい子どもが背丈も伸び、知恵も増えていく「成長」や、若者が試練を経て逞しくなる「成長」は大歓迎だ。経済に限っても、安全な飲み水さえ十分に得られず電気も通じていない所に住む人が沢山いる国などでは、物質的成長が必要なことは、私も十分理解している。しかし、すでに物質的に豊かになり、しかも、その過程で、地球環境の破壊をもたらした国々が、相変わらず経済の成長を追い求めるのは、甚だ疑問だ。もちろん、沢山の人が失業し、街がゴーストタウンとなるような経済は、健全な経済ではない。しかし、日本のような国で、毎年何%も成長しなければならないと思い込むこと自体に疑念を呈したいのだ。私は、「成長」よりは、有限の環境や資源のなかで、皆が工夫し、分かち合いながら「持続する」経済を確立することこそが21世紀に求める経済の姿だと思う。

しかし、世論調査をしても、政治家やエコノミストの声を聞いても、とにかく成長しなければならないと、皆が叫んでいる。その理由を私なりに理解すると、まず、国については、GDPが増大しなければ、国民の生活を支える様々な事業を実施するための財源が得られないという。企業の場合、経済成長がなければ、新規雇用どころか既存の雇用も減らさざるを得ない、さらに、税金も十分に払えず、新規投資も、イノベーションも出来なくなるという。一般市民にとっても収入が増えないと活気が失われ、人心が荒廃して、暗鬱で不安な社会になるという。本当だろうか。

経済に対する見方を変え、税金のかけ方、使い方、雇用のあり方などを含む社会・経済システムを変えさえすれば、困難ではあっても、今、述べたような懸念を克服できるのではないか。つまり今の経済システムを前提とすれば、成長なしには社会は成り立たないとの懸念が出てくるが、これを変えてゆけば、新しい価値観やシステムが出てくるのではないかと思っている。

3年前に、環境文明21は、成長神話に挑戦をする調査をしている。その内容は、本誌07年10月号に報告をしたが、私たちが注目したのは、企業の成長とはどのようなことを指すかと、企業人に尋ねたときに、一番多かった回答が「社会的信頼の拡大」であったことだ。次いで、「売上・収益・株価などの経済的価値の増加」がわずかの差で続いたが、「信頼の拡大」がトップにきたのには驚いた。つまり、3年前でも、企業人は脱成長の可能性を探り始めていたと言える。

20世紀型の経済では、成長することによって、国も企業も個人も幸せになれるという確信でもって経済政策を実行していたと考えられるが、その背景には、規模の拡大、効率の向上を何よりも重視する経済学があったように思われる。安定とか脱成長は堕落であり、努力を放棄し、競争から脱落した者と思われてきた。もちろん、人間は様々な面があるので、スポーツや芸能などに見られるような良い意味の競争はあって然るべきだが、地球という限られた空間の中で、先進諸国はもとより中国やインドのような巨大な経済が無限の成長を求め続けたら、地球温暖化に伴う気象災害の頻発あるいは資源の奪い合いを避けるのは難しい。21世紀に、私たちが身につけなければならないのは、持続する経済を理論化する新しい経済学でなければならない。

毎年、秋にはノーベル賞の発表がある。これまで、物理学賞、化学賞、文学賞など、16人の日本人が受賞している。しかし、経済学賞だけは受賞者は一人もいない。これは単なる偶然なのだろうか。今後、ノーベル経済学賞が日本人にもくるとすれば、21世紀の人類が平和で人間の尊厳を維持しながら、生命の星、水の星である地球のなかで、穏やかに生きてゆける「持続性の経済学」を日本から発したときではなかろうか。私流に言えば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に盛り込まれた精神、もっと古くは、二宮尊徳の報徳思想なども組み込める新しい経済学の樹立に成功すれば、成長なしでは国も企業も破滅するといった従来の経済学から脱出できるし、政治家は「成長戦略」ではなく「持続戦略」を語ることになろう。

私たちは今、環境文明社会の探求を続けている(本誌本年6月号、8月号を参照下さい)。そのような社会になったときに、日本の経済は「持続する」経済となっているよう頑張って検討を重ねてゆきたいと思っている。