2011年8月号会報 巻頭言「風」より

「脱原発」論:3プラス1

加藤 三郎


東電の原子力発電所の事故から5カ月となる。この間、原発問題についての意見は様々に飛び交っている。私自身、沢山の議論を見聞きしてきたが、本欄では特に印象の深い三人のご意見の紹介と改めて私自身の意見を表明しておきたい。

その三人とは、作家であり、ノーベル文学賞の掛け声も高い村上春樹さん、二人目は、城南信用金庫理事長の吉原毅さん、三人目は、人類学者の中沢新一さんである。

三人の主張の根拠はそれぞれ違っているが、脱原発を目指すという点では変わりがない。

村上春樹さん(作家)

村上さんは今年の6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞受賞式で、「非現実的な夢想家として」と題してスピーチし、原子力に関する彼の考え方を表明した。毎日新聞は6月14日から16日まで3回に分けて、スピーチ全文を掲載している。その長いスピーチのうち、原子力発電問題に関わる部分について、少し詳しく紹介しよう。

今回の福島での事態は「我々の倫理や規範に深く関わる問題である」と村上さんは言う。彼は、広島と長崎に、原子爆弾が投下され、多くの人が亡くなり、生き残った方も多くが放射線被ばくの症状に苦しんだことを想起する。原爆投下から66年が経過する今、福島第一発電所が放射線をまき散らし、周辺の土壌、海や空気を汚染し続けていることについて、彼は「何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?」と自問し、その答えは「効率」だと考え、次のように続ける。「原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。(中略)国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で3番目に原発の多い国になっていたのです。」

「原発に疑問を呈する人々には、『非現実的な夢想家』というレッテルが貼られていきます。」「原子力発電を推進する人々の主張した『現実を見なさい』という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な『便宜』に過ぎなかった。それを彼らは『現実』という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

それは日本が長年にわたって誇ってきた『技術力』神話の崩壊であると同時に、そのような『すり替え』を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。」

原爆の悲惨さを知っている我々日本人は、核に対し「ノー」を叫び続けるべきだったと、村上さんは言う。「我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が『原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ』とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。」

吉原 毅さん(城南信用金庫)

城南信用金庫と言えば、日本に数ある信用金庫の中でも、預金、貸出ともに全国2位という信用金庫である。その城南信用金庫は、4月8日、「原発に頼らない安心できる社会へ」と題した次のような“宣言文”を発表した。

「東京電力福島第一原子力発電所の事故は、我が国の未来に重大な影響を与えています。今回の事故を通じて、原子力エネルギーは、私達に明るい未来を与えてくれるものではなく、一歩間違えば取り返しのつかない危険性を持っていること、さらに、残念ながらそれを管理する政府機関も企業体も、万全の体制をとっていなかったことが明確になりつつあります。

こうした中で、私達は、原子力エネルギーに依存することはあまりにも危険性が大き過ぎるということを学びました。私たちが地域金融機関として、今できることはささやかではありますが、省電力と省エネルギーのための様々な取組みに努めるとともに、金融を通じて地域の皆様の省電力、省エネルギー、そして代替エネルギーの開発利用に少しでも貢献することではないかと考えます。」

朝日新聞は6月29日付で、吉原理事長へのインタビュー記事を載せている。「正直いって私自身、不安に思っていませんでした。反原発運動に対しても、なぜそこまで反対するのだろう、と思っていました。いま、申し訳ない気がしています。ちゃんと考えなければいけませんでした。」と3.11以前に彼が抱いていた原発に対する見方への反省を率直に述べ、3.11以降、彼の考えが変ったことを次のように述べている。「今回の原発事故は人間の思い上がりを象徴するものです。このような技術文明は近代合理主義の行き着いた果ての姿かもしれません。経済発展は、無理のない着実な程度がよいのです。それなのに大局観もなく突き進み、成長のために原発はやめられないと思いこんだところが問題でした。」

さらに吉原さんは「今回のような事故を2度と起こしてはならないと考えるならば、すべての原発はいったん運転を止めるべきです。一斉点検し、老朽化したものは廃炉にする。できるだけすみやかに、です。」とも述べている。このインタビューの最後に記者から、あなたは経済界の異端児ですね、と言われたのに対し、「とんでもない。私は常識人ですよ。ご近所のみなさんや中小企業の経営者の方々が思っているような、ごく当たり前のことを言っているだけです。」と答えている。

中沢新一さん(人類学者)

中沢さんは雑誌『すばる』の6・7・8(8月号補遺)月号に「日本の大転換」と題する論文を発表した。字数にすれば5万字を超す大論文で原発問題以外にも一神教論あり、資本主義論ありで刺激的でユニークな論考である。但し、彼独特の用語もあり、私には必ずしも読みやすい論文ではなかったが、彼の原子力問題に対する意見は、明瞭である。その部分を私なりに要約すると次のようになる。

原子力発電という技術体系は、致命的な欠陥を抱えている。地球の生態圏の内部に、太陽圏に属する高エネルギー現象(太陽内部の核融合により大量に発生する熱エネルギー)を無媒介的に持ち込むその技術は、今の人類の知識段階では、安全に運用することが、きわめて困難。しかも、この技術体系は、自分が生み出す大量の放射性廃棄物を、安全に処理することができない。すべてのイデオロギーを排除して考えてみても、原子力発電からの脱出こそ、人類が選択すべき正しい道である、と。

中沢さんは、原子力に替わって何を使うべきかについては、いわゆる「自然エネルギー」など太陽から「贈与」されたエネルギーを地球で受け止め、それを生態圏の内部に持ち込む手だてとしての技術、すなわち原始の地球上で原始的な植物がはじめた光合成など生態圏生成の運動を人類は模倣することによって、新しいエネルギー体系を作るべきだと主張する。「生態圏をただ収奪するのではなく、生態圏を甦らせることによって、人類ははじめて、地球上でほかの生き物を益する生き物となるであろう。」そして、彼はこのような大転換は、「日本文明を収縮させたり、弱体化させるのではなく、むしろ文明としての自分たちの本性への立ち返りを実現することになる。そして私たちは、そこから新生への歩みを開始することができる」と中沢さんは主張している。

最後に私自身の意見をごく簡単に要約しておこう。私自身はこれまでも、原発の推進派でも反対派でもなく、いわば慎重派という立場で来ていた。その最大の理由は、原子力技術は、放射性廃棄物の処理・最終処分すら出来ていない未完成のシステムであるということに尽きる。取り敢えず危険な廃棄物は保管してあるに過ぎない。しかも、その保管量はどんどん膨れてきて、溢れんばかりになっている。これまで日本は高速増殖炉の開発や使用済み核燃料の再処理施設、最終処分場の建設など試みてきてはいるが、未だ成功していない。そのような中で、原子力発電を続けることは、東電・福島での悪戦苦闘ぶりを毎日見せられているように、危険なだけでなく、物理的に限界に近い。そういう意味から私自身は、既設の、安全に使える原発に限って今しばらく(10年~20年くらい)上手に慎重に利用し、その間に省エネと自然エネルギーの活用を徹底し、最終的には原発を廃止すべきだと思っている。つまり、性急な即廃止派ではないが、基本的には、脱原発に組する。

民主主義では、「自由」と「責任」、「権利」と「義務」が求められます。そして環境文明社会の構築に向けては、お任せ民主主義から、真の民主主義の深化を図っていくことが重要です。そのためには、情報を発信したり受けとる「自由」「権利」と併せて、選択し判断する「責任」や「義務」を引き受ける、市民としての覚悟が求められているのだと思います。