2011年9月号会報 巻頭言「風」より

前進ために情報を活かす

藤村 コノヱ


8月6日放映のNHKスペシャル「原爆投下~活かされなかった極秘情報」をご覧になった方も多いと思います。これまで想定外の奇襲とされていた66年前の原爆。実は日本軍の諜報部隊は、米軍の不審なコールサインを事前に傍受し、そのことを軍上層部に伝えていたにもかかわらず、その情報は握りつぶされ、そして広島、長崎での大きな悲劇を招くことになってしまった、というもので、当時の諜報部員の証言とその後の資料により明らかになった事実です。この事実そのものに驚かされたのは当然ですが、それにもまして、この情報隠ぺいが今回の原発事故と重なり、66年を経た、情報化時代と言われる今も、当時とさほど変わらない国や官僚、政治家の体質・実態にがく然とする思いです。

当時の日本軍上層部がどのような判断で、この「国民の生命」に関わる重要情報を握りつぶしたのかは明らかではありません。しかし、負け戦の最終場面で、軍の中枢部に「国民の命が第一」という思いは殆どなかったと思われます。一方今回の原発事故ではどうでしょうか?電源喪失の時点から、以前から原発に警鐘を鳴らしていた科学者、学識者、NGOの間では、重大な事故になるとの情報は流れていました。そしてその情報は政府にも届いていたはずです。しかし、政府が重視したのは、東電本社や経産省、そして原発推進御用学者からの情報であり、結果的に「国民の命」に関わる重大情報を軽視していたのではないでしょうか。こうした時の国の常套の言い訳は、「国民がパニックに陥るから」と言うものです。確かにそうした懸念が皆無とは思いません。しかし、震災後の多くの日本人の冷静な行動を見る限り、的確な情報を迅速に公開した方がメリットは大きかったと思われる面は多々ありますし、何より政治家はじめ責任ある人たちが国民の生命を第一に考えていれば、もう少し違った対応ができ、被害を今よりは抑えることができたのではないかと悔やまれます。

こうした政府、政治家、そして大組織の無責任体質に加え、マスメディアの情報もまちまちで、ツイッターやブログへの書き込みも大量にあり、本当に何が正しい情報なのか、誰の言う事を信じればいいのか、まさに情報化時代のリスク、負の側面を体験する事態が今も続いています。

そうした中で、私たちがしなければならないことは、大きく2つあると思います。

一つには、迅速かつ適切な情報公開を強く求めることです。情報公開は民主主義に不可欠のものとして、スウェーデンでは1766年に情報公開法が制定され、アメリカでは1966年に国民の知る権利を背景に情報公開法が制定されています。日本でも、それを求める動きは1970年頃からありましたが、施行されたのは2001年4月。しかも、国民の知る権利は目的に明記されていないなど、不十分な点も多いようです。また除外される情報として、個人情報、法人情報、国の安全・外交に関する情報、公安情報、意思形成過程情報、行政執行情報等が挙げられています。今回の原発情報は「公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれ」ということになるのでしょうが、国や政府、大企業の無責任体質が蔓延る中で、民主主義国家として除外される範囲がこれで適切なのか、大いに疑問を感じてしまいます。(ちなみに、今回の会報で大久保先生に書いて頂いたオーフス条約は、環境に関連した情報へのアクセス権、意思決定への市民参加の権利、司法へのアクセス権を保障する条約ですが、日本はまだ批准さえしていません。)

もう一つは、政府やメディアを頼みにし期待するよりもむしろ、情報を受け取り選択する私たち自身が、賢く情報を選択し判断し使いこなす力をつけることの方がもっと重要だということです。情報はあくまで状況に対する知識をもたらしたり適切な判断を助けたりするものです。しかも、これからの時代、原発に限らず、遺伝子組み換え、ips細胞、多様化する化学物質の大量使用などなど、自然の理から外れた先端技術が及ぼす人や自然界への影響(「未知の領域」)については、例え情報があっても、それをどう判断し、個人として、社会としてどう行動するか、まさに人間の知恵が試されるからです。

そうした知恵を育むため、文部科学省でも、情報教育を20年以上も行っています。しかし、現状を見る限り、情報を処理し使用するノウハウは育ったものの、自らの経験と結び付けて情報を選択し、知恵として活用する能力の育成にはあまり役立っていないように思われます。また2000年より導入された「総合的学習の時間」は、こうした未知の領域にも対応できる「生きる力」の育成を目的とし、「情報教育」も一つの柱でしたが、結果として、影の薄いものになりつつあります。

一方情報産業に関わる産業界も、ハード技術の開発や市場の拡大には熱心ですが、教育や倫理といった面は「使う側の問題である」としてあまり熱心ではありません。

ここ十数年のIT技術は目覚ましい進展を遂げています。

また、会報7月号で、環境教育推進法が改正されたことで、情報公開を積極的に進めることや、市民・NPOの意見を政策に反映させる仕組みづくりが進むだろうことを述べました。そして、原発問題についても、この法律が使えるのではないかと述べましたが、今回、原子力安全・保安院や原子力委員会などの組織が経産省から環境省に移管されることにより、その可能性はより高まったのではないかと思います。さらにオーフス条約批准に向けた動きもあります。

こうした情報開示を求め使う場面は少しずつ整備されつつあるわけですから、これから先は、情報を「知恵」として使いこなせるようになることが大切です。おそらく、こうした知恵は、一朝一夕でつくものではなく、学校・生活・仕事のあらゆる場面で一生涯を通じて自ら身につけていくしかないのかもしれません。それでも、信じるに足る有識者の知見(情報)と科学情報を参考にしつつ、自らの知識や経験、ヒトとしての感性(直感)、想像力、倫理観等を総動員して、選択し、判断し(私の場合は、自然の理に沿っているか、将来世代にツケを残さないかが基準です)、知恵に変えて行動していくことを日々の生活の中で積み重ねていくこと、そうした姿を子や孫に伝えていくことを、私たち自らが、意識的にやっていく必要があるのではないでしょうか。

民主主義では、「自由」と「責任」、「権利」と「義務」が求められます。そして環境文明社会の構築に向けては、お任せ民主主義から、真の民主主義の深化を図っていくことが重要です。そのためには、情報を発信したり受けとる「自由」「権利」と併せて、選択し判断する「責任」や「義務」を引き受ける、市民としての覚悟が求められているのだと思います。