2012年3月号会報 巻頭言「風」より

原発の賛否は国民的議論から

藤村 コノヱ


大きな悲しみと苦しみをもたらした3.11から、一年が経過しようとしています。

被災地の復興の様子を報じるメディアがある一方、現実には、深刻な課題がまだまだ山積しているという話も耳にし、復興には長い時間がかかることを改めて感じます。

一方福島第一原発は、冷温停止状態の宣言は出たものの、あの事故の大きさから、依然として予断を許さぬ状況が続いていることは、普通の感覚を持つ市民であれば誰でも推測できます。

そうした中、原発をめぐる国民投票への関心が高まっています。

世界には、スイスやイタリアのように国民投票に拘束力を持たせる国もありますが、日本国憲法では、憲法改正の際の国民投票のみが想定されていることから(国民投票法2010年5月施行)、原発の賛否を問う投票の結果に法的拘束力を持たせるには憲法の改正が必要となります。しかしそれには、長い時間が必要となることから、自治体の住民を対象として一定の住民投票の制度が認められていることを活用して、住民投票で原発に対する民意を示そうというのが、今回の東京都や大阪市での動きです。こうした動きに対して、石原東京都知事は「作れるはずがないし作るつもりもない」と定例記者会見で発言、橋本大阪市長の意見も否定的との報道もあり、今後どのような動きになるか注目されるところです。

「持続可能な社会を作る」観点から、私個人も原発の是非に関しては国民投票が必要だと考えており、こうした動きに賛同するものです。しかし、次世代を見据えた正しい選択とそれを的確に政策に反映させるには、ある程度の時間をかけて、原発についての正しい知識を得、深く考え、議論し、判断する、国民的議論の時間が必要だと思うのです。

その理由の一つは、原発推進派の行動です。現在原発の再稼働に向けた議論が盛んに行われていますが、推進派の人たちは、あの悲惨な原発事故に何ら学ぶこともないのか、従来の価値観や考え方、利害に固執し、ストレステストの妥当性も議論しないままに、「とにかく再稼働」をごり押しするのみです。2月15日に開かれた国会の原発事故調査委員会で、国の原子力安全委員会と、原子力安全・保安院のトップが答弁していた姿は、知識のみならず責任感のかけらも見られませんでした。このように、今回の事故とその後の「専門家」と言われる人たちの対応を見ていると、原発をトータルに見ることのできる真の原子力の専門家などいないのではと思われます。(その後の民間の事故調査委員会報告はそれらをうらづけています。)こうした人こそ、壇上から降りて、謙虚に国民の生の声を聞き真摯に議論し、政策作りに反映させる責任があると思います。

もう一つは、反対を唱える市民の行動です。3.11以降、福島を除く宮城・岩手の災害廃棄物を受け入れているのは東京都などわずかな自治体で、膨大な量のがれきは被災地の仮置き場に置かれたままの状況が続いています。その大きな理由は、廃棄物に福島第一原発事故による放射性物質が付着しているのではないかという不安をもつ住民の反対です。通常のごみ処理施設の建設でさえ反対運動が多いのですから、今回の住民の反対も分かります。特に子どもを持つ親の心情は理解できます。しかし、運び込まれる廃棄物については、前号で紹介したように、被災地から搬出する際はもとより、受入後も破砕・焼却・埋立後に測定するなど、厳しいチェックが行われています。にもかかわらず、なかなか受け入れが進まないのは、市民の側にも、科学的知識や倫理的思考が不足しているのではないかと思うのです。快適で便利な生活と経済的成長を得るために、これまで(無意識のうちに)選択してきた「原発」と、例え今すぐ「サヨナラ」したとしても、私たちはこれから生涯にわたり付き合っていかなければならないという覚悟が求められる今、冷静に原発の課題を理解し、推進派と議論し説得し合意していく力を多くの市民がつけていくことこそが、脱原発への近道であり、民主主義のあるべき姿ではないかと思うのです。

これまで原発にどっぷり漬かってきた人たちと、これまで原発やエネルギー問題にまったく無関心だった市民が、一時的な感情や短期的な視点で判断するのではなく、健康被害も含め、環境面での影響や経済性、何よりこれからの日本を、そしてエネルギーをどうするのかという中・長期的視点と人間としての倫理を基本に多くの人が冷静に議論する場こそが今、緊急に必要なのではないかと思うのです。

とはいえ、こうした場がなかなか持てないのも日本の現状です。

2月20日付毎日新聞で、曽根泰教慶応大学院教授が、「熟議と民意」の方法として討論型世論調査(DP)という手法を提案しています。無作為抽出した対象の中から150-200名程の人を、まる1日もしくは2泊3日の日程で1か所に集め、討議に必要な充分な資料を事前に送付し、参加者同士の討論に加え、専門家への質問も行う方法です。従来の世論調査に比べ政策決定過程に対する国民の当事者意識が高まり、世論の高まりに押されて国会での議論が活性化される効果があるとのこと。また、原発のような社会的論争のある科学技術について、専門的な知識を持たない一般市民が数か月かけてDPより複雑な手順を踏んで合意形成していくコンセンサス会議のような手法もわずかながら日本でも実践されています。

そして私自身も、ディベートやロールプレイのゲーム手法を用い、関連資料提供の後、原発推進派と反対派に分かれ、原発のメリットや課題を環境面、経済面、人間社会面といった持続性の観点から抽出し、その後、全員で討議する半日程度の学習会を、環境教育の一つの手法として、学校や企業、地域で開いています。前述した2つの方法ほど厳密ではありませんが、それでも、これまでの十数年の経験から、この程度の討議でもかなりの効果はあり、国民的議論の入り口にはなると感じています。

「お任せ民主主義」に慣れてしまった多くの日本人にとって、議論は苦手かもしれません。それでも、私たちの生命に関わる環境、エネルギー、そして原発問題を、自分自身の問題としてとらえ、冷静に考え、何らかの形で意思を表さなければ、今なお悲惨な状況におかれる人たちと、多くの失われた尊い命に対して、あまりに申し訳ないと思うのです。そして、こうした国民の姿勢こそが、政局に明け暮れる国会を刺激し、本来の議論を導き出すことにつながるように思うのです。