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2012年12月号会報 巻頭言「風」より

ノーベル経済学賞はなぜ日本に来ないのか

加藤 三郎


今年10月は、山中伸弥京都大学教授のノーベル医学・生理学賞受賞で大いに沸いた。

日本中がこんなに喜んだのは、昨年7月の「なでしこジャパン」の女子サッカーワールドカップの優勝以来ではないだろうか。 人の皮膚細胞から創り出されたiPS細胞の科学上のメカニズムは、私を含め多くの人にとっては理解しづらいものだが、それが極めて画期的な業績であること、難病に対する新しい治療法をもたらすであろうことは察しがつくので、喜びはひとしおだった。

山中教授の受賞発表後に、ノーベル文学賞の発表があり、このときも村上春樹氏が受賞するのではと大きな期待が寄せられたが、今年は中国の作家にいってしまった。物理学賞や化学賞の発表の際にも、もしかしたら日本にとの期待があったが、こちらも今年は一服ということになった。

このようにノーベル賞受賞の話題が、普通の人々の間でも飛び交ったが、どういうわけか、経済学賞については、日本人の受賞可能性は話題にもならなかったことが今年も続いている。経済学賞は、日本は無縁の国ですよと言わんばかりで、私にとっては残念というより不思議である。なぜなのか、日本に経済学者がいないからか。そんなことはもちろんない。日本の多くの大学には明治時代から経済学部があり、学者は沢山いる。人の数だけで言えば、医学・生理学、文学、化学、物理学のどの部門にも引けをとるまい。また、歴史の点でも他の部門に比べてノーベル賞は不利だということはない筈。それならなぜノーベル経済学賞は日本に来ないのだろうか。

私には二つほどの理由が考えられる。一つは、賞に値する人は日本にも何人もいるが、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方。受賞は、いわば時間の問題に過ぎないのだが、日本では立派に業績を上げている日本人経済学者のことがよく知られていないので、報道もされず、うわさにもならないだけという理由である。

考えられるもう一つの理由は、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多く、今日の世界が直面している根源的な経済現象(例えば自由な競争下で経済成長を追求することから生じる格差や不平等の拡大、大量の貧困者や失業者の発生、環境の破壊など、一口で言えば地球規模での人間社会の持続性の崩壊)に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからというものである。

私は経済学徒ではないので、上に述べた二つの理由のうち、どちらが真実に近いかを言うことはできないが、二番目の理由のほうが私の気持ちにより近い。

本欄でも繰り返し指摘しているように、今、世界は様々な危機に直面している。それは気候変動、海水の酸性化、生物多様性の劣化など環境の加速度的な悪化に留まらず、貧富の格差や不平等の拡大、失業者の増大、資源の奪い合い、そしてこれらの諸問題を制御し、改善策を紡ぎだすのに必要な政治のガバナンス(統治)の弱体化などである。しかもそのガバナンスの基となる民主主義自体が機能不全になりつつあるのは、日本の政党政治の現実だけでなく、アメリカの大統領選挙の実態や欧州の政治的混乱、さらに腐敗にまみれていると報道されている中国の政治を見ても明らかだ。

このような危機に対し、アダム・スミス以来の流れを汲む欧米の経済学者は多様な学説を掲げ様々な解決策を提示している。代表的な論点は、大きな政府か小さな政府か、問題解決を市場に委ねるべきか、政府の介入を増やすべきかなどがある。私は今、ノーベル経済学賞受賞者のステイグリッツ教授の『The Price of Inequality(世界の99%を貧困にする経済)』を興味深く読んでいるが、問題だらけのアメリカの経済社会の現状に対し、鋭い分析と処方箋の提示をしている。力作で示唆に富んでいるが、この種のアプローチには限界があるように感じられる。

私自身は、全く別の観点からのアプローチ、例えば「足るを知る経済学」「自然共生の経済学」「和を貴ぶ経済学」などがあり得、しかもそれらは21世紀にこそ有効であると直感している。そのことを日本の経済学者に話すといやな顔、というより軽蔑の眼差しで「そんなのは学問ではないですよ」とニベもない。まるで西洋クラシックコンサートの舞台に義太夫語りか浪曲師が紛れ込んだかのように追い払われる。さらに石田梅岩の経営論や荻生徂徠の財政学、二宮尊徳の報徳仕法も21世紀にこそ活かされる貴重な業績ではないのかと言いかけようものなら、「数字にも、方程式にもならないものは学問とは言えない。」などと返される。

しかし、日本のどの時代にも「経済」はあり、その経済はいつも時代の波に揺れ動き、石田、荻生、二宮らはその時々の課題に果敢に取り組み、理論的ないし実践的な解決法を提示してきた。規模や方法論こそ違えども、持続可能な社会を追求する精神においては、今日の欧米流の経済学者に劣るところはないと私は考えている。

今の時代は洋の東西を問わず、あきらかに行き詰まりにあり、アダム・スミス以来の経済学も、世界を苦境から救い出し、持続可能な社会に導くのに有効な解答は出し得ていない。貧困者や失業者の異様な増加、そして不平等の拡大がその端的な証拠だ。江戸時代には3千万の人口を擁し、世界的にも稀な持続可能な社会を築き、文化的にも高い水準を持った日本の伝統社会の知恵や学問の中から、21世紀の世界に通用する普遍的な経済理論を汲みだす努力をすることこそが、ノーベル賞にもつながる業績になり得ると私は思うのだ。