2014年5月号会報 巻頭言「風」より

倫理なき日本の原子力政策

藤村 コノヱ


4月11日エネルギー基本計画が閣議決定されました。原発を「重要なベースロード電源」と位置付け、将来的に原発稼働を継続させる方針を明記、原発ゼロ政策を転換する内容です。福島では避難人口が約15万人(2013.3月時点)、原発では相変わらず汚染水等のトラブルが続き、除染に伴う廃棄物も増え続けています。そうした状況でのこの決定を見ると、事故当初、息をひそめていた原発推進派が確実に息を吹き返したことを痛感します。そして、日本はあの事故から何を学んだのか、倫理なき政治に悲しみと憤りを覚えます。

それを印象付ける多くの記事を目にしますが、特に、東電の原子力技術者のトップ姉川尚史氏の新聞記事(「朝日」本年3月29日付)と原子力委員会の鈴木達治郎氏のメールマガジン上での意見は特に気になりました。各々今回の事故に対して深い反省を述べ、推進派の中では良識派と思われますが、お二人の意見を見る限り、私たちが事故前から常に指摘してきた放射性廃棄物の問題については一言も語られていません。聞くところによると、廃棄物の処理方法については議論があるものの、死亡事故が最大のリスク(逆にいえば、放射線による直接の死亡者数が少なければ許される)という考え方が推進派の中にはあるようです。

その後原子力リスクに関する専門家の話を聞く機会がありましたが、彼もエネルギーは社会が選択するものとしながら、リスクは確率であり全てのリスクは死亡者数や命の値段で測れるという推進派の従来の論調でした。 良識派と思われる推進派でも、放射性廃棄物については既に技術的には解決済みであり、最大のリスクは事故、それも直接の「死」につながるものという認識があるようです。

本当にそうなのでしょうか?事故さえ起きなければ、直接の死者さえいなければ、原発は進めてよい技術なのでしょうか?今回の事故で平穏な暮らしの全てを失った方々の物心両面での傷は考慮すべきリスクではないのでしょうか?高レベル放射性廃棄物についても、現在ガラス固化したものを地下300m以深に地層処分すると定められていますが(「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律2000年制定)、地震大国日本で本当に安全なのか?10万年以上もの長期間誰が責任を持って管理するのか?そもそもそうしたツケを将来世代に残すことが倫理的に許されるのか?等死亡事故だけでない様々なリスクが存在するはずです。それなのにこんなに簡単に原発ゼロの方針を転換し、再稼働を進め、海外に売り込んでもいいのでしょうか。

ドイツでは、メルケル首相が福島事故後直ちに、「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」を組織し脱原発へと方向転換しました。元ドイツの環境大臣で国連環境計画の事務局長も務め持続可能高等研究所長であるデッファー氏を委員長に、市長、危機管理・環境・実践哲学・社会学専門の学者、教会代表者、労組議長など17名の委員で構成された倫理委員会報告を見ると、日本とはかなり異なる考え方が見えてきます。

例えば、倫理、リスク、廃棄物に関連する部分には、次のようなことが書かれています。

といった内容です。従来のリスクの考え方は不十分で、次世代にツケを残すことは倫理的に問題であること、そして原子力より安全なエネルギー源はあり、脱原発は市民社会と将来の経済の為に大きなチャンスになる、とまとめています。

日本にも原子力学会に倫理委員会は存在しますが、構成メンバーは、原発メーカーも含め殆どが推進派で、到底ドイツのような議論ができるとは思えません。そして、今回のエネルギー基本計画や前出した推進派の意見を見る限り、日本では将来世代を見据え、資源や自然環境の持続性と責任を重視した、倫理的議論は殆ど行われていないように思えます。

もともと倫理的思考に慣れたドイツですが、それでも推進派と脱原発派の間には対立があったようです。しかし、委員長は常に、倫理的に考えた場合原発は直ぐに止めた方がいいこと、目標があくまで脱原発であることを主張し続け、委員会は“両者の対立解消を意図するものではなく、両者の歩み寄りに有益かつ真面目な論拠を提示すること”に徹した結果、歩み寄りが見られたそうです。

今回のエネルギー計画は、経済性と技術性のみ優先したものですが、これらに優先する倫理的観点からの議論が始まらない限り、日本の原発問題の真の解決はあり得ないと思います。そして、このことに象徴される倫理喪失状態が続く限り、日本では、政治、経済、教育、技術の全てが世界に遅れをとるような気がしてなりません。