2014年8月号会報 巻頭言「風」より

惣山太郎の怪談めいた話

加藤 三郎


夏の夜には怪談がつきものだ。昔から、夏になると芝居や映画などで、『番町皿屋敷』や『牡丹灯籠』のような怖い話がよく出てきたものだ。私は臆病なくせに、怖いもの見たさ、聞きたさで、よく震えながらも見たり聞いたりしたものだ。

これから紹介する話も、ある意味、夏の夜の怪談めいた話と受け止められるかもしれないが、私にとっては、非常に関心のある話なので、ここに紹介しておく。その話をどう受け止めるかは、読者のご自由というものだ。 それは、6月末のこと。私の学生時代の同好会「科学技術史研究会」のOB会が退けた後、私の数年後輩のS君と一緒に帰り道につき、そのまま最寄りの喫茶店に立ち寄って話し込んだ。

実は、私はS君のことは数年前までは、ほとんど知らなかった。友人の話では、彼は技術評論家を名乗り、「惣山太郎」というペンネームで時折、新聞や専門雑誌などに寄稿しているそうだが、私の目には触れたことがないので、恐らくほぼ無名の評論家だろうと勝手に思っていた。しかし、その彼に私の注意が少し向いたのは、彼が当会の会員になったとスタッフから聞いたときだった。そのとき私は、彼は科学技術を追いかけるのに飽きて、環境問題に首を突っ込んできたのだろうと軽く考えていた。彼とはそんな関係だった。

ガランとした喫茶店の隅に私たちが席を取ると、彼は最初、最近の技術動向についてボソボソと話をしていたが、私が気候変動問題をどう考えるかと話題を向けると、一転して熱を込めて話し出した。有り体に言えば、私は最初、聞き流す気分でただ相槌を打っていたが、いつの間にか彼の話に引き込まれ、ある意味、怪談にも似たその中身に恐れを感じ始めていた。

彼が熱く語ったことを今改めて思い出して見ると、概ね次のように集約できる。


まず、気候変動問題への人類社会の対応は、あまりに小さくあまりに遅く、最早、気候変動の害を封じ込めるのが手遅れになったのは明らかで、破局は不可避であるということである。彼のこの断定に対し、私はIPCCに集う専門家の間では、「まだ希望がある」というシナリオを出しているではないかと尋ねたが、彼は、政府系の専門家は、まだ希望があると言わない訳にはいかないので言っているに過ぎず、まず本気ではない。もし、専門家の多くに 本音を聞けば、最早手遅れと言うに違いない。

実際、気候変動対策に関する国連会合の迷走振りを見ると、日本を含めどの国も国益と称する経済エゴ丸出しで、人類益など全く考えていないようだ。これでは、人類が採るべき正しい手段を選択できると思う方が無理だ、ときっぱり言って、彼はそう考える理由を次のように語りだした。

人間というのは、所詮、富や快適さという経済がもたらす“蜜”を手放すことは出来ないのだ。もちろん、人間もバカではないので、この蜜にも毒があることは認識し、ある程度の抵抗は試みている。条約を作ったり、法律を作ったり、ハイブリッド車を走らせるなどの努力はしている。しかし、その努力は、急膨張する経済を回すために使っている膨大なエネルギー量に比べると、あまりにも小さく、その甘い蜜の魅力に打ち勝つことはとても出来ないのだ。日本を見ても欧米を見ても、まして中国などの新興国では汚染問題が切実となり、一部の国民が騒いでいても、政府当局や経済界の多くはそんなことには素知らぬ顔だ。社会全体がアリ地獄にはまったようにずるずると経済の蜜の中に引き込まれるのを、誰も止めることは出来ないからだ。

しかも、ほとんどの国の政治体制は民主主義となっている。この体制の下では、世論や民意が大きく物を言うが、選挙を通して現れる民意や体制も、結局、経済の魔力には勝てないのだ。多少の抵抗や、言い訳がましい対策は試みられても、今の民主政治の下では蜜を与えつづける以外の選択はないのだ。

日本の中だけでも、やれクールビズだカーボン・クレジットだと掛け声だけは賑やかだが、対策に真に役立つ税や排出量取引の話や規制策など何一つ話題にもならない。その結果、日本では20年かかっても温室効果ガスの排出は少しも減っていない。規制をしたり、税を掛けたりすると、経済の成長やうま味が無くなってしまうと企業人だけでなく貧しい人までもが思い込んでおり、それが世論となってしまうのだ。つまり、なまじ民主主義であるだけに、結果的には人を破局に導く方向に政治は働いているのだ。

さらに強調したいのは、その結果として、誰が苦しむかである。最初に苦しむのは、社会の弱者、すなわち、貧しい人や情報が届かない人、いや届いても自ら使用しようともしない人、差別されている人たちの多くに気候変動のインパクトが直接降りかかっていくのだ。彼らの多くは不本意な、不条理な死すら、免れぬ運命にあると言ってもよい。しかも、悲しいことに、この人たちは、自分たちが何故こんな目に合わなければならないのかの真の原因、つまり、CO2などの排出増については何の関心も示していない。サッカーのW杯戦などでは、少なからぬ時間とお金をかけて大騒ぎするのに、自分たちの命運に係る気候変動対策には、無関心か、あっても深く吟味もせず傍観者よろしく眺めているのが現状ではないか。

一方、富者や強者は本来ならば、弱者を救い、守る方向に動くべきであるのに、そのようには動いておらず、弱者を見捨て、自分たちの生き残りの算段を開始していると思わざるを得ない予兆がある。富者から見れば、世界の人口は最早多すぎるので、弱い者、貧しい者、生きる力の乏しい者は、結果的には死んでも仕方ないと考えているとしか思えない政策すらも採られ始めているようだ。

しかし、その富者や強者と言えども、結局、成功はしないのだ。なぜなら、欲深い人間が一世紀以上に亘って引き起こした気候変動は、今後数世紀に亘って威力を増し続けていく。気候変動が一年や二年で片が付くのなら、カネに飽かせて食料や水を備蓄したり、甚大な被害に追い詰められ、絶望した貧困者や弱者によるテロや暴動などに巻き込まれないよう、ITや武器ロボットなどで固めたゲットー内に閉じこもって、なんとか生き延びることも出来るかもしれないが、そのあがきは4年も5年も続けられない。結局、弱者も強者もともに気候変動がもたらす地獄のようなケイオス(混沌)に投げ込まれるだろう。

このようにして、人類史上未曽有の災厄が、恐らく2030年前後に人間社会を襲うことになろうが、所詮、人間はこのような破滅の淵からでしか、立ち直れないのではないか。旧約聖書にはノアの方舟の話が出てくるが、人間は、自己中心的な貪欲からは破滅の道へしか導かれないことを痛切に体験して初めて、科学の差し示す道を謙虚に、そして、利他の心と足るを知る知恵とで歩む以外にないことを体得するのではないだろうか。

そのようなわけで、最近までは気にも掛けていなかった宗教、とりわけ日本に根付いた仏教や神道の心が誠に大切であり、新しい世界をつくる上で有効であると思えてきて、今は、それにすっかりはまっている。そこまでゆけば、今世紀の後半には生き残った人たちによる新たな人類史が再出発することになるだろうが、そこに行き着くまでは、たいへんな混乱と試練の連続だろう。


ここまで、ほとんど一気にしゃべると彼は突然時計を見て、「あ、すみません。この後、もう一つ、会合があるのを忘れていました。」と言い終えると、慌てて席を立ち、「先輩、また近い内にお会いしましょう。語り足りないことが沢山あるし、第一、先輩のお考えも全く聞いていないので、ぜひ近くお目に掛かりに参ります。」と言い終えると、後も見ずに忙しい街の中に飛び出していった。

私は、あっけにとられて、彼の後姿を見送ったが、彼が語った怪談めいた怖い話を思い起こし、じっくりと咀嚼しなければとの思いが強く残り、私もまた鞄を抱えて、まだ夕映えの残る街に踏み出した。