2015年4月号会報 巻頭言「風」より

21世紀は「グリーン経済」

加藤 三郎


1.現代の王様―「経済成長」

私たちは今、極めて複雑でしかも危険な時代に生きている。本欄で常に指摘している環境の破壊だけでなく、中東やアフリカで起きている紛争、テロ、暴力沙汰、しかもISなるテロ集団の言語道断な人命や人権の蹂躙、さらにウクライナで今生起している内戦などを見ていると、一体、人間らしさはどこにいってしまったのかと考え込んでしまう。そのような物騒な世界にあっても、まるで王様のように君臨しているのが、生産と消費の拡大を主体とする「経済成長」であるといっても過言ではなかろう。

それにはもちろん、それなりの理由がある。世界の人口は、今でも毎年、8,000万人程度増加している。72億人超の世界人口から見ると増加率は1.1%程度であるが、それでもこの多さだ。生まれてくる人々にまともな衣食住を提供し、インフラを用意するだけでも、物的な成長はどうしても必要であろう。それに加えて、豊かなはずの先進国の中にも生活に事欠く人の数は増えている。この人たちの生活水準を引き上げようと思ったら、豊かな人々の所得や資産の一部を強制的に移転させでもしない限り、「経済成長」させ、景気を浮上させることが、必要だということになる。さらにこの世には、いくら金持ちであっても、もっと豊かになりたい貪欲な人も沢山いる。

このように貧しい人も金持ちもともに「経済成長」を求めているので、その人たちに選挙される政治家も政党も、経済成長を最重要施策と位置付けざるを得ないのであろう。安倍晋三首相がこの道しかないとして、アベノミクスによる成長戦略を追求し、国民のかなりの支持を得ているのも、それ故だろう。

これに関連し、竹中平蔵氏のコメントを思い出す。それは、12年5月25日付の朝日新聞のほぼ一面を使ったインタビュー記事のなかに出てくるが、担当記者が「バブル崩壊後の低成長社会で育った若い世代に竹中さんの主張するような成長追求路線は説得力を持って届くでしょうか」と問いかけたのに対し、竹中氏は「ゼロ成長で本当にいいのですか。それでは、何年かすれば、日本の一人当たり所得は韓国に抜かれるでしょう。私が成長反対派に言いたいのは、君たちは貧しくなる自由がある。でも、豊かになりたい人の足を引っ張るなということです」と答えている。まさに、そこのけ、そこのけ経済成長様のお通りだ。

2.環境の限界を超えてもなお、成長?

環境の有限性と環境破壊のただならぬ現実を強く意識している私を始め多くの人々は、日本のような先進国では、ひたすら経済成長を追求する路線は望ましくもないし、中長期的に見ると、可能でもないと考えている。先進国といえども、沢山いる貧しい人への対応は、税などによる再分配をすることにより達成すべきで、これ以上のモノの生産と消費に依るべきではないと考えている。つまり、分配の改善策並びに量の成長から質の充実への経済政策の転換により、出来るだけ多数の人々の福祉の確保と自然環境の持続性を求めているのである。

環境の有限性を明確な形で最初に打ち出したのは、43年前に発表されたローマクラブの「成長の限界」である。近年では、IPCCによる気候変動に関する警告やエコロジカル・フットプリント分析によって、人間の活動量が地球環境の容量を5割程度超過したことを明らかにしたWWFの科学者たちの業績がある。私たちはこれほど明確な警告が発せられているのだから、大量生産・消費をもたらす「経済成長」路線をすみやかに転換すべきだと考えるが、それを良しとしない人が世の中には結構いる。

私がこれまで耳にした成長推進派主張の代表例を挙げると「人間は馬鹿ではないし、科学技術は日々進歩している。今直面している危機なるものも、技術が救ってくれる筈。科学者とか環境派人種の言うことは、どれほど信用できるのか。明日の天気予報すら外れるのだから、彼らのいう警告などは怪しいものだ。あるかないか分からない限界とか環境の破綻とかを心配するよりは、今日明日もっと豊かに生きるほうが大切ではないか。そうしなければ、貧困・不平等などの課題は解決できない。政治家は、余計なことは考えないで、足元の経済政策をしっかりやってくれ」などがある。

私は、これらの主張が正しいとは思わない。そう考える最大の根拠は、まぎれもなく崩壊しつつある地球環境や人間社会の現実そのものだ。これは、いくら不都合な現実だとしても、それを真正面から見つめるしかないと考えてきた。ちなみに先ほど引用した竹中氏のコメントに対しては、私は自分のブログで次のように反論している。「君たちは貪欲に生きる自由がある。でも、心豊かに自分の世代だけでなく次世代の人々、さらに多数の生きものたちと共生できる環境を守り、さほど金持ちでなくとも、ほどほどの物的な豊かさの中で人間としての尊厳を守って生きたい人の足を引っ張るな」と(12年5月28日付)。

3.必要なのは「グリーン経済」

人が生活している以上、いつの時代にも経済はある。縄文時代でも狩猟採取中心の経済があったし、江戸時代には農業を中核とし、それを商工業が支える経済があった。20世紀後半には、科学技術をフル活用した大量生産・消費によるグローバル規模の経済があった。しからば、21世紀はどんな経済となるのであろう。私たちの答えは、それはグリーン経済でしかあり得ないということである。

古くからの会員はご存じのように、当会ではかねてから持続可能な社会を支える経済を「グリーン経済」と定義し、その中身について検討を重ね、ある程度の成果を得た段階で、その都度冊子に取りまとめ、関心を有する人々に配布し、コメントを求めてきた。平成15年から18年にかけては「グリーン経済を成り立たせるための10の提言」、平成20年から25年には「持続可能な環境文明社会における経済の有り方」、平成25年から26年には「持続可能な地域社会づくりのためのグリーンジョブの見える化」などである。このように私たちなりに、持続可能な社会を支える経済とは何かについて、10年以上かけて検討を重ねてきている。

このグリーン経済については、私たちだけでなく、世界中で沢山の人たちが研究し、発表してきている。例えば、国連の環境庁(UNEP)もかなり早くから持続可能な生産・消費に関する政策の詰めを行っており、2011年に公表したレポートにおいては「グリーン経済」を「環境リスクと生態上の不足や欠乏を著しく減少しつつ、人類の幸福と社会的公正さを向上させる経済」と定義している。また先進国クラブのOECDは、Growth(成長)という言葉がまだ残ってはいるものの、その前にグリーンという言葉を付けた「グリーン成長」へのアプローチを追求している。

しからば、私たち環境文明21がこれまでのところ辿り着いた「グリーン経済」とは、どんな特徴を持つものなのだろうか。まず何よりも、人は「有限」な世界に生きていることをしっかりと認識した上で、共生、互助・利他、ほどほど、知足、惻隠などの価値を、教育などを通して出来るだけ多くの人と共有すること。その前提の上で、経済活動の向かうべき方向は、①環境破壊はしない、②公平・公正な市場メカニズムの確立、③将来世代や途上国に責任を負う、④ローカル経済とグローバル経済の共存などである。

このような方向性を粘り強く確実に追求しなければ「グリーン経済」は名ばかりで、姿を現すことはない。たとえば、上記①を実現するためだけでも、まず環境負荷や汚染リスクの少ない技術や産業構造への転換は不可欠だ。その転換を促すためには、政策目標をしっかり定め、その目標を達成するため規制や税、排出量取引、金融、エコポイントなどの経済的手法をフルに活用するだけでなく、教育、表彰、物語の流布などソフト面も動員する必要がある。このように日本社会のグリーン化に取り組むためには、グリーン経済の必要性に関し、幅広いコンセンサスが国民の間に醸成され、その中で政治家も立ち上がる必要がある(戦後の復興や産業公害時代での公害との戦いなどの良き前例がある)。

②~④のいずれも、簡単に実現出来ることはなく、①と同様、国民の広範な理解と参加なくしては不可能である。NPOとして私たちは諦めず、政策を鍛え、あらゆる機会を捉えて、これまで以上に社会に働きかけていくしかない。そうしなければ、日本も世界も荒廃した社会に突き進むことを覚悟しなければならないからだ。