2016年2月号会報 巻頭言「風」より

短期的経済利益に屈伏する環境政策
~「1.5℃目標」切り捨てに思う~

加藤 三郎


気候変動など地球規模の脅威に対する政策を立案したり、実施しようとする際に、最も悩ましく、困難が伴うものは、その政策に付随するコストと環境保全の効果との間で賢明なバランスを保つことである。何故、難しいのか、その理由はいくつもあるが、コストの方は、金額や支払いの期間について、あらかじめ相当程度、定量的に見通せるのに対し、効果の方は、その中身やどこまで拾うかの広がり、さらに効果が発現する期間などを計量することは難しいのが一般的である。つまり、両者を評価する時間軸が異なるのだ。

ここで、一つの現実的な例題として、今、日本の経済界が電力の小売全面自由化を前にして、がむしゃらに推進しようとしている石炭火力発電所の新増設問題を考えてみよう。石炭火力は、いくら高性能の発電システムを使用しても、CO2の排出量がLNG火力と比べても2倍程度大きい。従ってパリ協定の採択の前から、アメリカは石炭火力発電所からCO2排出に強い規制を掛け、イギリスは同発電所を2025年までに全廃することを決めるなど、いくつもの先進国が、石炭火力発電に対して規制の強化や廃止を目指している。

しかしながら、日本では、石炭火力は他の電源に比して発電単価が安価であるという理由で、多数の発電所を新規に導入しようとしている。ひとたび建設されれば40~50年は運転する石炭火力発電所の新増設に今ゴーサインを出すことは、長期的視点から見れば、決して安価で合理的な判断とは思えない。にもかかわらず、それを短期的な利益のために無理にも推し進めようとする経営者、またそれを許す政治家、官僚諸氏がいることである。

このような懸念をより一般化したのが、昨年暮れに安倍政権が決定した「1.5℃目標」切り捨ての方針である。

安倍政権は、昨年12月22日に地球温暖化対策推進本部の会合を開催し、パリ協定を踏まえた地球温暖化対策の取組方針を決定した。パリ合意から10日足らずの迅速な行動であり、どのような内容になるのかが注目されたが、発表文を見て思わず目を疑った。パリ協定の中でも最も核心的な部分である長期目標は、気温の上昇を産業革命以前の平均気温から2℃より「かなり低く」抑え、1.5℃にするため努力するとあるにも拘わらず、安倍政権の取組方針では2℃だけを目標として、さらに悪いことに、これが「世界の共通目標」という説明文を添えている。最初、私は何かのミスかと思ったほどだ。

日本に限らず、エネルギー環境分野の専門家の多くは、今後かなりの対策を取ったとしても、2℃未満(すでにほぼ1℃上昇しており、近年、温度上昇は加速している)達成は困難であると考えていた。例えば国連の環境庁(UNEP)は、パリ会合に先立つ昨年11月に、各国から自主的に提出された削減目標がその通り達成されたとしてもGHGsの総排出量は540億㌧程度になり、2℃未満に抑えるためには、追加的に120億㌧程度(日本の排出総量の約9倍)の削減は必要と指摘し、各国に対してさらなる削減強化を訴えていたのだ。

そのようなことは「パリ協定」への交渉者なら誰でも知っていることであるのに、1.5℃が協定文にあえて書き込まれたのはなぜか。

それは、2℃未満を長期目標と定めた2010年開催のCOP16の時から、気候変動による平時の海面上昇に加えて、大潮やサイクロン等の発生時に人命にも関わる極めて甚大な被害を既に経験している太平洋、インド洋、カリブ海などのサンゴ礁の上に築かれている40余の小島しょ国の代表は会合の度に口を揃えていたことである。すなわち、自分達が今日直面している窮状のみならず、遠くない将来には、島の財産も文化も放棄して、移民・難民になるしかない危機を訴え、とても2℃上昇まで待てず、せめて目標を1.5℃未満にすべきことを主張し続けていたのである。パリ会議においても、文字通り自国の存亡をかけて、出席した首脳や交渉担当者に訴え続けた。そのような長年に亘る訴えと気候変動の厳しい現実が、パリ会議で共通の認識とされたことになる。

もちろん、パリ会議に日本の首席として出席していた丸川珠代環境大臣はじめ交渉担当者はその事情を十分に知っていながら、12月22日の段階では、1.5℃目標を見捨ててしまった。おそらくその理由は、「1.5℃目標達成は、とてもではないが不可能。1.5℃を目指したら、日本の経済はとても持たず、安倍首相の2020年に名目GDP600兆円などは達成できない」というものではなかろうかと私は推察する。しかし、公式にはそうとも言えず、「2℃目標が世界の共通目標となり」という文語を挿入して、国民にはこれが世界の常識だと言わんばかりのミスリーディングなメッセージを発したとしか思えない。

私がここで最も懸念するのは、気候変動の激化に対し、これまでより格段に強い対策を取らなければ人類社会はもたなくなるという痛切な認識のもと、6年余の交渉を重ねてやっと辿りついた国際社会の合意を、短期的な経済利益を最優先する安倍政権の都合で、あっさりと切り捨ててしまったことである。これでは、安倍首相自身が本年1月22日の施政方針演説で語った「地球温暖化対策は、新しいイノベーションを生み出すチャンス」との主張を自ら崩すだけではなかろうか。

残念ながら、この姿勢こそ日本の環境政策が短期的な経済利益を確保する観点からは正当化されても、中長期的には、誤った経済への配慮に屈伏した姿そのものとしか私には思えないのであるが、いかがであろうか。