2016年9月号会報 巻頭言「風」より

「知性」「人間性」を見失わないように

藤村 コノヱ


今年の夏も西日本では猛暑が続き、以前は台風とは無縁の北海道で豪雨が続くなど、異常気象が日常化しています。一方人間界では、テロや戦闘、残忍な事件が連日のように報道され、自然も、人間・社会も崩壊の一途を辿っているようです。そうした中で、オリンピックでの若者の一途な姿は一服の清涼剤でしたが、何にもまして天皇陛下のビデオメッセージには深く心を動かされました。特に、象徴天皇としてのあるべき姿を常に考えてこられ、“国民を思い国民のために祈る務め”を“全身全霊”で果たされてきたとのお言葉には、誠実で深い人間性が溢れていました。そして、メッセージ全体を通じて私たち国民に、歴史を継承しつつ、今与えられた務めを精一杯果たし、それを次の世代に繋げていくという人間の営みの大切さを示して下さったように感じました。

また今年の広島、長崎の両市長の平和宣言も心に残るものでした。二人とも政治家ですが、被爆地のリーダーとしてのメッセージには、核兵器は非人道性の極みであり、その根絶に向けて、全ての人が「熱意」「連帯」「英知」をもって行動することの大切さを、これまで以上に強い思いで訴えていたと思います。 天皇と選ばれた市長と、立場は異なるものの、長い時間をかけて積み上げてきた人間の英知、それらを踏まえた先見性、「利他」「共生」という精神性など、人間にとって忘れてはならない大切なこと、人間性を再認識させられるメッセージでした。

最近、日本でも「反知性主義」という言葉がよく聴かれます。元々アメリカのキリスト教原理主義者が進化論などの科学的分析に反発したことを指したものといわれていますが、『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホーフスタッター著)によれば、「反知性主義」とは、「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々に対する怒りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義されています。またその本質について、内田樹氏は、「長い時間の流れの中におのれを位置づけるための想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする」ことであり、「ここでない場所」「今でない時間」という言葉を知らないためだと述べています(『日本の反知性主義』)。反知性主義に対して日本でも様々な意見があり、私も確固たる考えを持ち得ていません。それでも少なくとも、単に学歴や知識ではなく、過去・今・未来を見通す力、他者を思いやる心、それらの智慧をもって自らが判断し行動する人が、「知性ある人」ではないかと思っています。

そう考えると、現在の日本に限らず世界中で、多くの政治家や企業リーダーに限らず市民の間でも、「今しか」「自分しか」見ようとせず、判断も行動もそして責任さえも他人任せの「反知性主義」的な傾向が広がりつつあるようです。そしてそれを利用する政治家も増えているようです。しかし、そうした傾向が戦争や人類の破滅につながることは過去の歴史が示しています。

本誌7月号で、日本学術会議の提言も参考に、今教育に求められるのは、自ら考え判断し実践する能力、根源的な問いを問い続ける思考力、他者と人間的に向き合う力、社会に参画する「市民」としての資質の向上であり、特に倫理的教育が重要、と書きました。今回のメッセージを聴いて改めて、こうした教育が、真の「知性」「人間性」を育むように思います。

しかし現実の日本の教育がそうした方向に向かっているかは疑問です。

一つは、昨年6月、文科省は人文系の学部、大学院の廃止や配置転換を求める通知を出したことです。その後批判が続出し、文科省は弁明におわれましたが、明らかに現代社会の要請に対応するもので、教育の理念に反するものです。

二つ目に、今年8月に文科省が公表した2020~22年度からの小中高校の新学習指導要領案です。指導内容に加え指導方法や学習成果の視点から見直され、討議やディベートなど能動的な学習手法を採用した点は評価します。しかし、小学校高学年で、英語が教科になったことで、総時数が事実上限度とされる現在の年間980コマを超える1015コマになり、夏休み短縮や土曜授業、休み時間も学習に、といったことも検討されているそうです。それでなくても、世界一忙しい日本の教師は益々多忙になり、学習指導力や学級運営力の低下、健康問題、ひいては教員希望者減少にもつながりかねません。

しかしそれ以上に心配なのは、子ども達への影響です。教師の質の低下は、教育の質の低下に直結します。また、時数の増加は、それぞれの発達段階で必要不可欠な、遊ぶ時間、深く考え学ぶ時間、他者と直接交わり視野を広げる時間などが、塾やゲームやSNS等で減少している現状を、さらに助長し、時間に追われる生活を子ども達に強いることになります。「ゆとり教育」への批判が今回の時数増につながったようですが、学校現場、子どもの心身の発達段階への配慮、将来的影響に対する議論も備えも十分に尽くされないままに、時数だけ増やしても、決していい結果は生まれないと思います。

過度な利便性や目先の経済性と引き換えに、 多くの大人が、「反知性主義」に象徴されるような人間にとって最も大切なものを失いつつある昨今、それに拍車をかけるような教育を放置しておいていいのでしょうか。

人を育てるのは学問であり、学問の原点は哲学だといわれます。それを軽視することは、人類の歴史の軽視であり、人間そのものを軽視することです。

気候変動問題の解決に向けても、“科学・技術”と共に公平性などの“哲学”が求められる昨今、この分野でも、真の「人間性」「知性」をもった対応について考えてみることが大切だと思います。