2016年10月号会報 巻頭言「風」より

「パリ協定」年内発効への備えはあるか

加藤 三郎


1.年内発効の見込み

昨年12月、あらゆる障害を乗り越え、人類の英知を絞り出したようなパリ協定が採択された。この協定については、何が画期的かと言えば①産業革命前からの平均気温の上昇を、2℃を十分に下回るレベルに抑え、1.5℃未満に収めるよう努力する長期目標を設定した点、②世界全体で、早期に温室効果ガス排出量の増加を止め、今世紀後半には、排出量と吸収量とを均衡させ、「実質ゼロ」を目指すとした点である。これにより、気候変動の原因である化石燃料から脱却し、新たなエネルギー・産業構造への転換に踏み出すことに世界が合意したことを意味する。

この協定については予想よりもかなり早く、本年中の発効を可能とする流れが、特にオバマ大統領の強い働きかけを受けて、大きく動き出している。その象徴的イベントとしては、中国の杭州市で開催されたG20首脳会合に先立ち、9月3日に挙行された同協定の批准式がある。オバマ大統領と習近平主席が揃って、両国の批准書を潘基文国連事務総長に寄託したのだ。

オバマ氏は6月7日には、インドのモディ首相と会談し、インドの早期批准も働きかけ、モディ氏も年内発効に向け、役割を果たす旨約束し、現に10月2日に批准している。

一方、先進国に対しても、オバマ政権は早期批准を積極的に働きかけ、その成果は、安倍首相が議長を務めた伊勢志摩G7サミットの首脳宣言(5月27日)の中で、「パリ協定の2016年中の発効という目標に向けて取り組む」旨、書き込まれている。

米中首脳が、外交上、異例とも思われる程、批准を急いだのには、もちろん、それぞれに政治的理由がある。これについて、様々な分析やコメントが出ているが、私の理解は次のようなものだ。オバマ氏の場合には、来年1月に任期を終える大統領として、ブッシュ政権が取った京都議定書否定という誤りの先例を踏まぬよう細心の注意を払ったことだ。気候変動問題に対し、極めてネガティブな対応を取り続けている共和党優位の上院にパリ協定の批准を求めることはせず(トランプ候補はハナからパリ協定を拒否している)、大統領の権限内で批准出来るように協定の文面を極めて慎重に選び、COP21の議長国であるフランスをはじめとする主要国にそのことを理解させて、協定文面を確定させたことである。これにより、オバマ氏はパリ協定を正式に承認することを可能とした。

一方、中国としては、国内の人権抑圧に対して、習政権に対する様々な批判が先進国から寄せられていた。それに加えて、南シナ海の領有問題について国際仲裁裁判所が中国の主張をことごとく跳ね除けたことで国際政治面では、具合の悪い状況に追い込まれていた。そういった中で「責任ある大国」を演出する中国としては、パリ協定を早期に結び国際社会の先頭に立って、気候変動問題に対処するという姿勢を内外に示す必要があったと思われる。

何はともあれ、年内発効の見込みとなったのは幸いである。その中で、温暖化問題に対しては消極的な態度を続けてきた安倍首相としても、伊勢志摩サミットの議長として、日本の早期批准にコミットする以外には手が無いと判断したかと思われる。しかし、9月26日の首相の所信表明演説の中にはパリ協定には全く言及がない。これが経済最優先内閣の現実だ。

2.日本は何をすべきか

パリ協定が年内に発効する見込みで、日本もいよいよ対策待ったなしだ。まず、現在、掲げている削減目標をより厳しいものに改定する必要があるが、その前提としては、2030年の電源構成のエネルギーミックス【石油3、石炭25、LNG 26、再エネ 22~24、原子力22~24%】を改訂し、さらに本来ならば、成長至上の経済政策も大幅に見直すべきであろう。なぜならば、今、安倍内閣が掲げているエネルギー・環境政策や経済成長の前提はパリ協定の合意前に決めたものであるからである。政府は今、「2050年80%削減」を視野に気候変動対策の長期戦略の検討を開始しているが、またぞろ環境派対経済・エネルギー派の対立が厳しく、議論も前進していないようだ。

日本ではこの20年ほど、特に90年代から2000年代までは、多くの家庭でも、冷蔵庫や空調の買い替え、照明のLED化、車のハイブリッド車化、また、多くの企業においても省エネ、省資源にかなり努めてきたことは確かである。企業の一部からは、もうこれ以上は無理だとの声も聞くし、日本は省エネ大国といった神話が未だまかり通っている。もし、これらの努力によって日本の温室効果ガスの排出が少しでも低減したと言うのなら、努力を誇っていいのかもしれないが、現実は、対策元年である1990年から見ると、2014年度の温室効果ガスの総排出量は、削減どころか、なんと7%余も増加している。結構やったつもりでも、総量は全く減っていないのだ。しかし、他の先進国を見ると、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、デンマーク等どの国も20%前後の削減をしている。何故その差が生じてしまったのか。答えは簡単だ。取り組みはしたが、真剣な対策ではなかったということである。さらに重要なことは、市民や企業が本気で対策を取れるような仕組み作りを、政府をはじめ日本の政治は、この10年近く怠ってきたからである。

日本の企業と言っても、もちろん温暖化に熱心な企業はある。特に、海外で製品を売らねばならない自動車とか電子機器関連企業は、海外の規制に合わせて製品を作っている。EV車や燃料電池車はその典型例である。しかし、日本の産業界の大御所を自認している経団連のなかで特に鉄鋼・電力・化学などのエネルギー多消費型産業は、自主行動と称した自分で出来る範囲のことしかやってきていない。

ここでもよく触れるように、1970年代の公害対策はまさに必死に取り組み、見事な成果を出した。また、1990年以降の廃棄物対策でも、例えば違反者には1億円以上の罰金を科すなどの厳しい対策を取ったことで、廃棄物の排出は減り、リサイクルが顕著に進んでいる。

経団連や経産省を中心に排出量取引、排出規制、環境税といった必須の対策に、執拗に反対してきたので、効果が出ていないのだ。これに関連して思い出すのは、今、都知事として脚光を浴びている小池百合子氏の発言である。小池さんは、小泉内閣の環境大臣を務めたとき、彼女なりに温暖化対策に挑戦し、クールビズ、ウォームビズだけではなく本質的に効果の出る対策に踏み込もうとした。しかし、それを実現出来なかったくやしさを、大臣を辞めたあと、2007年1月31日付の朝日新聞紙上で次のように発言している。私は、それを同年の本誌3月号の本欄で紹介しているが、今、読み直しても、今日でも当てはまる話であるので、少し長いが、引用しておこう。「日本では再生可能エネルギー利用への努力が、環境先進国に比べていま一つだ。技術はあるが、普及が徹底していない。環境税に反対しているのは、この国や業界、自社に自信のない人たちだ。この国の強みがどこにあるのかを理解している人は有効性を理解している。排出量取引についても日本は遅れている。「あれも嫌」「これも嫌」と言っている間に世界はどんどん進んでいる。米国は京都議定書には参加していないが、次のゲームが始まった時にはリード役になっているかもしれない。日本だけがあっという間に取り残される可能性さえある。」と小池さんは語っているが、10年後の今、まさにその通りになっている。

さて、環境を守り、しかも次世代の産業を育てようと思っている人たちが共通して推奨している経済的手法には、排出量取引制度を導入すること、また、現行の地球温暖化対策税を大幅に強化するか、新たに炭素税を創設(所得税などは減税)することがある。

また、規制的手法としては、大気汚染防止法を改正ないしは、温室効果ガス排出規制法とでも称すべき新法の導入だ。これにより火力発電所、製鉄所などの固定発生源のみならず、自動車、船舶、航空機等からのCO2の排出量を規制し、また、CO2以外の温室効果ガスの規制も可能とする。それらは大幅削減には不可欠だ。

これらの政策をやろうとすれば、市民からの理解と支援が不可欠だ。そのためには、情報をやさしく提供したり、学校から地域コミュニティ、職場に至るまで、気候変動問題の重大さとその対策の可能性と効果などについて知ってもらう教育も必要だ。

最後にこれに関してもう一言、提案がある。従来、使い慣わしてきた「地球温暖化」や「気候変動」という表現は今のままでよいのだろうかと思ってしまう。「温暖」という日本語表現は、危険を表すよりはむしろ、ポジティブで緩やかさを表し、また「変動」も変化と同様、中立的なニュアンスを帯びており、その語自体では危機や脅威を感じさせない。しかし、温暖化も気候変動も今や社会にとって重大な危機、脅威、となりつつある以上、例えば、温暖化は灼熱化、気候変動は気候異変と表現し直したら、どうであろうか。ついでに言えば、温室効果ガスも灼熱化ガスではいかがであろうか。こんなことも真剣に考えるべき時を迎えている。