2017年8月号会報 巻頭言「風」より

賢治の思想、混迷の世界を照らす

加藤 三郎


私は少年の頃から後期高齢者である今日まで、良寛禅師の和歌や宮沢賢治の詩歌・童話などを深く敬愛して読みついできた。良寛の、次のような名歌が心にしみる。

この里に手まりつきつつ こどもらと 遊ぶ春日は暮れずともよし

やまかげの岩間をつたう苔水の かすかに我はすみわたるかも

まるで慈愛と静謐に満ちた良寛の詩歌を読むと、いつも身も心もそのまま良寛の世界に委ねていたい心持になる。

だが、問題は宮沢賢治だ。宮沢賢治に最初に惹かれたのは、小学校で習った、かの有名な『雨ニモマケズ』の詩であるが、もちろんそれにとどまらず『セロ弾きのゴーシュ』、『よだかの星』、『なめとこ山の熊』、『グスコーブドリの伝記』等々、たくさん読んできた。賢治の場合は、厳格なまでに清貧を貫いた良寛と違って、一応現実の世界に身を置いている。彼は農学校の教師もしたし、農芸化学の専門家として農民指導も行った。また鉱山の技師なども短い期間していたことがあるので、良寛とは違い、一応娑婆の世界に足はつけてはいるものの、彼が語ることは、多分当時でも、少なくとも今日の社会経済状況からは、遊離しているように思えた。

私にとって、そのことを特に強く感じさせ、考え込ませたのは、『雨ニモマケズ』に盛り込まれた賢治の思想だ。実はこのことについては、本誌の94年5月号においても論じているが、それから23年経った今日でも心に引っかかり、解答を模索し続けてきた。

何が問題かと言えば、①「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク決シテ瞋(イカ)ラズ イツモシヅカニワラツテヰル」、②「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ」、③「東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」、④「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」に盛られた祈りの思想(書かれたのは1931年。賢治35歳)である。

ここに盛り込められた思想・信条は、普通の現代人(私もかなりの程度その一員)の経済や生活に対する感覚と大きくかけ離れていると思われる。すなわち、ⓐ物の豊かさ、便利さ、快適さを何より重視し、それを追求するのを善しとする、ⓑ個人の尊厳や自由の追求は基本的人権の不可欠の要素と考えるので、自己利益の主張は当然の権利行使と考え、自己犠牲などまずあり得ない、Ⓒ何事であれ「進歩」することを重視するので、経済(GDP)もまた「成長」しなければならず、政治がそれを目指すのは当然である。

このような現代人の感覚からみると、先に引用した賢治の言葉のうち、まず①と②は、ⓐやⓑに全く合わないだろう。同様に、③は他人への無償の奉仕や自己犠牲の精神を示しているので、ⓑに合致せず、④の「デクノボー」と呼ばれ、ほめられも苦にもされない人になりたいというのは、ⓑの個人の尊厳を貶めるものとして、名誉棄損として訴えたくなるかもしれない。

このような疑問をこの23年間繰り返し、心の中で問答しているうちに、最近ようやく、私なりの解答を見出しつつある。それを導き出したのは、この間の経済、社会、そして地球環境の劇的な変化(というより劣化)である。私の青・壮年時代ぐらいまでは、西洋社会は自由・平等・博愛の理念を高く掲げ、科学の力と民主政治を駆使して、科学技術・都市文明という経済の華を咲かせたことに人は瞠目し、その道を一生懸命学んでいた。

しかし、21世紀が視野に入った頃から、この西洋システムに様々に綻びが目立つようになってきた。「自由」は金持ちや権力者に偏り、「平等」はほとんど言葉の上のものと化し、「博愛」は今日の深刻な人種差別や難民・移民問題すら適切に解決できず、そして何より、あらゆる生命の基盤である環境の、ほとんど取り返しのつかないほどの破壊の進行を私たちは目の当たりにしている。

もちろん、この事態を憂い、奮闘努力している人はどの国にも少なくないが、今や76億人にも達し、経済の豊かさに向けて一団となって走り出している人類社会に、その危険さを気づかせ、方向を転換させるには、これまでとは違った価値観が必要だろう。

私は、それは、日本の伝統社会が持っていた「モノより心」「足るを知る」「自然との共生」「和を重んじる」などの精神ではなかろうかと思い、藤村コノヱさんたちと一緒に、『環境の思想―「足るを知る」生き方のススメ』を2010年に上梓したが、残念ながら社会の大きな支持は得られなかった。

しかしながら、世界の政治・経済・社会の危機的な現状を見るにつけ、過去数世紀続いた欧米の原理・原則のみでは、人間社会を平和で安全に維持するのは困難だと考えるに至った。良寛や賢治などが体現している日本の伝統社会の知恵が静かに示していた生き方、価値観を、この世界の立て直しの精神的基盤に据える努力を本気ですべきであると思い直している。混迷し危険な今こそ、宮沢賢治は、新しい希望となりうるのではなかろうか。