2018年4月号会報 巻頭言「風」より

「パリ協定時代」を生きる覚悟と幸せ

加藤 三郎


1.「パリ協定時代」とは

2015年暮れに採択され翌年に発効した「パリ協定」は、過去2世紀ほどの都市・工業文明時代を大転換する画期的な出来事だ。なぜなら、パリ協定のエッセンスは、今世紀後半に温室効果ガスの排出と吸収を均衡させ実質ゼロとすることを国際社会が一致して合意したことで、これは協定以前の「低炭素」ではなく、「脱炭素(脱化石燃料)」を目指すことに世界が踏み出したことを意味するからだ。

今世紀後半といえば、今からたかだか30年後であることを考えると、この目標は極めて厳しい。今日、社会を動かすエネルギー源の9割近くを化石燃料が占めていることを考えると、短期間で実質ゼロにするのは、従来のやり方では困難である。しかし、世界中で気候変動が激しく、甚大な被害が発生している現実と、将来はさらに厳しくなるという科学界からの予測と警告とに対応した結果が、パリ協定の合意である。

パリ協定は都市・工業文明の歴史の中でも画期的な出来事だと述べたが、それ以前の日本で匹敵する出来事の一つは、1853年のペリー艦隊の「黒船ショック」であろう。黒船が見せつけた科学技術力、軍事力を前に、徳川幕藩体制は大きく揺らぎ、わずか15年後には明治維新となり、それ以前とは原理的に異なる社会を創り出した。もう一つは、1945年にポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、主権在民などの全く新しい憲法の下で、軍事力によらず平和的な産業を興すことで、国の復興と国民生活の向上路線に転換したことである。日本もパリ協定を批准し、脱炭素社会に向けコミットしたことは、過去の二つの出来事に匹敵する大転換になると考えている。

多くの方は、「パリ協定はそんなに大切なのか?」「環境オタク的意見ではないか?」と思うかもしれない。実際、私の知る限り、協定の重大さを黒船ショックやポツダム敗戦に匹敵するものと受け止める見方はないようだ。しかし、今の都市・工業文明の基盤である化石燃料の使用を徹底的に削減し新しいエネルギー源に転換することは、単に石炭火力を風力等に変えればすむという話ではない。エネルギー構造はもとより、交通や消費生活、技術体系から教育を含む大変革が不可欠な時代、「パリ協定時代」に生きることになる。

2.覚悟も必要

化石燃料をふんだんに使い、豊かで便利で快適な生活空間に生きている私たちにとって、30年前後で化石燃料を大幅に削減し、新しいエネルギー源に転換することは並大抵ではない。人間でいえば、これまでの血液を捨て、今までとは違う血液に入れ替えるのに等しい。こういうと、「電力は化石燃料ではなくソーラー、風力などで簡単に置き換えられるではないか、なぜそれが大変なのか」という意見もあろう。確かに、電力に限れば、電源を換えるのはさほど難しいものではない。しかし今の便利で快適な生活を支えているものは電力だけではない。車も船も飛行機も新幹線も、そして無数のビルや工場の熱源なども化石燃料から他のエネルギー源に変えなければならず、それには、様々な仕組みや新たな投資、何よりも国民の理解と支持が不可欠である。

過去25年ほど、日本は気候変動対策に無策だったわけではない。ハイブリット車、燃料電池、水素社会に向けた技術開発なども行われ、家電製品の省エネも進んだ。おそらく、国民の多くは、これ以上何ができるの?と思うかもしれない。しかし過去20数年に及ぶ様々な努力にもかかわらず、温室効果ガスは全く減っていない。温暖化対策の起点である1990年時点と比べ、直近の2016年の数字は3.5%も増えている。このことは、今、政府や企業や市民がやっている程度の努力では脱炭素どころか、低炭素すら不可能なことを意味する。これを今後30年程度で「脱炭素社会」に転換するには、現状の努力では全く足りず、根本的に新しいやり方を探らなければならない。しかし、今そうした動きは、少なくとも政府や財界から出ておらず、安倍内閣の方針は、パリ協定以前の政策である。

さすがに環境省は危機感や焦りを感じており、中川環境大臣も、石炭火力発電の新増設に対しては厳しい意見を述べている。しかしエネルギー多消費産業の政治力や経済産業政策の力が不当に大きい安倍政権下では、脱炭素に向けて未だ踏み出していない。困難でも、これを転換しなければ次のステップに進めないという覚悟が総ての人に求められている。

3.幸せもある

このように、パリ協定が求める脱炭素社会に到達するには、政治的、経済的、国民の意識・認識面で、暫くはいばらの道も覚悟しなければならない。しかし、脱炭素社会を達成できれば、気候変動の恐怖に苦しむこともなく、よりクリーンな大気環境が得られ、人として幸せにつながるに違いない。さらに、民主的システムが強化され、貪欲に支配されないグリーンな経済を創る過程で、人々の幸せは増えるに違いない。ナオミ・クライン女史は、著書の中で次の様の言っている。「気候変動は、これよりさらに大きな歴史的チャンスとなると私は確信している。多くの科学者が推奨するレベルまでCO2排出量を削減する取組の一環として、人々の生活を大幅に向上させ、貧富の格差を縮小し、良質な雇用を多数創出し、民主主義を土台から再活性化する政策を進めるチャンスを、私たちは再び手にしている。」私たちも子や孫のためにも、ラジカルに頑張らなければならないのだ。