2020年7月号会報 巻頭言「風」より

多重危機の中の「環境危機」の特異性

加藤 三郎


私は過去半世紀、若い時は大気汚染や水質汚濁などの公害対策、さらに廃棄物対策や浄化槽行政の推進、そして中年以降は地球温暖化などの地球環境問題に向き合い、対策に携わってきた。特に今世紀に入ってからは、気候異変や生物の種と個体数の減少、さらには環境ホルモンなど微量な化学物質による健康影響など、それ自体がもたらす実体的被害だけでなく、経済的・財政的出費も考えるとただならぬ状況に陥りつつある。文字通り危機の様相が深まるにつれ、私の関心は、この「環境危機」にかなりの程度集中していた。 そんな私に、もう一つの「危機」が何の前触れもなく飛び込んできた。新型コロナウイルスによる感染症パンデミックである。このパンデミックは、人間活動圏の自然界への膨張と、ヒト、モノ、カネの自由な交流を推進してきたグローバル経済がもたらした落とし穴であり、その恐さをまざまざと見せつけた。

私自身はこの間、環境危機とコロナ危機の二つを見つめながら自宅で著書の執筆を続けていたのだが、私たちの生命や暮らしはもとより、社会全体もコロナ危機に限らず多様な危機に囲まれていることに改めて気づかされた。会員諸氏は、そんなことは当たり前ではないか、首都直下型地震も南海トラフ地震もずいぶん前から繰り返し警告されているとおりのれっきとした危機ではないか。またある人にとっては、コロナに感染するより経済活動がストップしてしまい需要も生産も消滅したような経済の大収縮こそ、倒産や失業に即繋がる本物の危機なのかもしれない。さらに、昨今の北東アジアの政治的、軍事的状況は緊張や不安定化が増しており、ひょんなことから軍事衝突になったり、ミサイルが飛び込んで来やしないかと本気で心配している方もいよう。もしかしたら、いつか隕石が落ちてくるのではないかと大真面目に心配している方、あるいは原子力発電所が再び大事故を起こしたら日本の経済社会は立ち直れないのではとの危機感を持っている方もいるかもしれない。

このように日本の社会とその中における私たちの生命や暮らしは、実に様々な大中小の脅威や危機にさらされている。そのことを、改めて思い起こすとともに、私自身が半生を費やして取り組んできた地球環境の危機はこれらの危機の中でどういう位置づけになるのか、またどんな特色を持つのかを考察してみた。

「環境の危機」は他の危機とは異なる特異性がある。まず発生原因を見ると、他の危機、例えば大地震であれ戦争であれ大恐慌であれ、人はそれを欲して追い求めていったら危機になってしまったというものではない。人はいつでも、それは是非とも避けたいと思いながらも、偶然や様々なプロセスの結果、陥ってしまう類の危機である。それに対し環境の危機の場合、その発生原因は、昔から殆どの人が願い、そして今も願っているモノの豊かさ、便利さ、快適さを確保しようと、社会も個人も大変な努力を傾注してきたら、地球環境が許す限界を超えてしまい、気がついたらとんでもない危機に陥ってしまったというのが実態だろう。つまり、生活水準の向上という人間のまっとうな願いを刻したコインの裏側には、その人間の生活を全面的に破壊するような「環境の危機」が張り付いていたのだ。

もちろん、このような危機の理解に対し、①そもそも環境とは昔から常に変化しているだけであって、危機などではない、②地球環境の限界を超えたというが、まだまだ余裕はあるのではないか、③コストメカニズムや科学技術の絶えざるイノベーションによる解決策も十分考えられるのではないか、あるいは④地球環境が満杯になったら火星その他の宇宙に移住すればよいのではないか、などの異論・反論もあり得ると思う。しかし、私はそう考えない。この人間の欲求と裏腹にある環境の危機の特性こそが、他の危機とは異なる希望であると考えている。

どういうことか。繰り返し述べているように、人は太古の昔からより良い生活を求めて工夫を重ね、技術を鍛え、制度を創り、営々と努力を怠らず発展してきた。この努力は当然、経済の量と質を変えたが、それでも地球環境の危機を引き起さなかったのは概ね1970年代までである。その頃の世界の人口は40億人弱、経済の規模は現在と比べ、おそらく1桁程度は小さい。ちなみに、国連が初めてこの問題に取り組んだのは1972年、ストックホルムで国連人間環境会議を開催したときである。また良識ある経済人の集まりであるローマクラブが『成長の限界』を出版したのもこの年である。

しかしながら、わずか50年ほど前までは、地球の環境、つまり大気も陸も海も生物も全く健全だったとは言わないまでも、なんとか持続可能だったという事実は、しっかり頭に留める価値はある。だから今なすべき事は、できるだけ早期に、人間活動から出ている環境負荷(例えばCO2の排出、化学物質の多用、森林の破壊と土地の改変など)を最小にするようエネルギー源を転換したり、技術の開発・普及を環境面からもチェックする制度を創る。あるいは、消費生活を含む私たちのライフスタイル全般を見直し、新しい経済社会の構築へと向かう知恵と勇気を調える機会とすべきであろう。

このようにいくつもある危機の中で、環境の危機だけが、私たちがこれまでの価値観や経済のまわし方を改めることができれば、何とか乗り越える可能性を有する危機だと思うのだ。

よく、「ピンチをチャンスに」という言葉が使われるが、まさに環境の危機に立ち向かう今こそがそれである。そしてそのチャンスは「環境文明」社会の構築の中から出てくる、というのが私達の長年にわたる活動を通じて主張したいことである。