2020年8月号会報 巻頭言「風」より

気象災害にも感染症にも負けない地域・社会づくりができないものか…

藤村 コノヱ


いったん落ち着いたかに見えたコロナ感染が再燃する一方、今年もまた、熊本やわが故郷大分など九州各県、そして全国で大雨による大規模災害が発生し多くの生命・財産が奪われています。次々と襲いくる災いに、本当に大変な時代になったと改めて思う毎日です。

4月号で気候変動もコロナも、根は人間の過度な欲望がもたらしたグローバル化と土地開発にあることや対策の遅れが被害を拡大させること、そして人命よりも経済優先が現在の政治・社会とも書きました。それに加えて気づいたことは、その場しのぎの“対策”ばかりで、先を見通した予防原則に基づく“政策”が殆どないことです。毎年同じような地域が豪雨被害に見舞われている現状や、コロナ対策として私たちの大切な税金が目先の経済や政治家の私欲のために不透明な方法で無意味な対策に使われているのをみていると、腹立たしさと同時に、どうしてもっと先を見通した、意味ある“政策”が取れないのかという苛立ちが募ります。

度重なる災いの中で多くの国民が究極的に望むことは、「安心・安全に心豊かに暮らす」というごく当たり前の要求であり、それは例え不確実な時代であっても変わることはなく、これこそをすべての“政策”の要にすべきだと思うのですが、この国難の時でも現政権にはその姿勢は全く見られません。

一方、良識ある企業人や研究者の中には時代の転換期に真摯に向き合う動きも出てきており、私自身も、改めて原点に戻り、次のようなことはできないかと考えています。


拡大・成長・競争から、持続・調和・共存の倫理観ある経済へ

2つの災いの主な原因として過度なグローバル化と土地開発を上げましたが、感染症の再燃にもかかわらず、経済との「両立・共存」として、日本を含む殆どの国で経済再開に躍起です。勿論私も経済の重要性は理解しています。しかし、経済は経世済民(世の中を治め人々を救う)であり、「経済は人々を幸せにする道具」と習い、それが経済の本来の姿と信じている私には、様々な災いの原因にもなっている現在の経済は、本来のそれとは異質のものに思えてなりません。そして拡大・成長を基本とした現在の経済の姿を変えないままに、気候危機や感染症という災いと「調和」「共存」「両立」させるなど、そんな都合のいいことは到底あり得ず、転換が必須だと思うのです。ではどう方向転換していくのか?

例えば、かつての日本には、近江商人の“三方よし”や渋沢栄一の“論語と算盤”といった倫理ある経済活動がありました。日本という島国で生きていくには競争よりも調和・共存が商売の鉄則で、それこそが有限な環境の中で持続する経済の姿でした。そうした思想は、今も多くの企業の創業者の言葉にも残っています。経済のグローバル化の弊害が顕在化し益々不確実性が増す中で、この日本流の経済思想と手法を再生させること、それは多くの企業が熱心に取り組むSDGsを本物にし、人と社会を幸せにする本来の経済の姿に立ち帰ることを可能にするはずです。規模の拡大ではなく質の向上を目指す経済です。

その第一歩として、経済悪化がもたらす最大の弊害が失業や格差であるとすれば、企業として、まず人件費はコストではなく暮らしや社会を支える基盤という考え方に立ち戻る、また人命に係る医療・福祉・食・教育・防災などの産業の国産化を目指す、さらに新たな感染症との遭遇や自然災害を少しでも避けるために森林開発はじめ、自然を痛めつける不要な開発(例えばリニア新幹線)を止めるなど、元に戻るのではなく、今回の経験を活かした新たな企業活動と、それを支える仕組みができないものでしょうか。


先を見通した政策、予防原則に基づく政策を、ボトムアップでつくり上げる

毎年繰り返される気象災害、今後も新たなウイルスとの戦いは不可避と言われる中、少しでも希望が持てる暮らしや社会を次世代に引き継ぐには、無責任な小手先の対策ではなく、先を見通した戦略性ある政策が不可欠です。

予防原則とは、簡単には「たとえ科学的に確固としたエビデンスがない場合でも、影響が甚大な場合は予防を第一にする」という考え方で、1960年代に旧西独の環境政策に「予防」概念が導入されたのを起源に、1992年のリオ宣言で国際的に定着、日本でも第二次環境基本計画(2000年)で基本的方針の一つとされて以降環境政策の重要な柱に位置付けられています。当会の「憲法に環境原則を」でも提案しており、元々環境政策から始まったのですが、フランスではSARSが流行した2003年に憲法に加えられたそうです。しかし日本では、例えば気候変動緩和策として有効とされる炭素税もいまだ導入されず、脱石炭も中途半端といった具合に、常に短期的経済対策に負かされ、予防的政策は不十分なままです。感染症に関しても、ここ数十年の保健所の削減や当初のPCR検査軽視は、予防より対策重視の姿勢のように見えます。要は、将来を見通し未然に防ぐことより、今できることに注力するのが日本のこれまでのやり方です。(実際に将来像も未だあやふやです)

しかし、科学も進みデジタル化も加速する中で、科学的知見やデータを適切に活用することで、的確な将来予測も可能なはずです。政府や自治体はそれを隠蔽や誤魔化すことなく、市民に伝えること。そしてこれまで蓄積してきた「智慧」も踏まえ、市民・NPO、研究者、企業等、さらに周辺地域とも連携して、将来像を明確にし、既存の様々な計画を気候リスクや感染リスクにも配慮した政策として作り直すことはできないでしょうか。

帰省や出張も叶わず、いつもと違う「暑い夏」に負けないように、こんなことを考えて自らを鼓舞する毎日です。