2021年5月号会報 巻頭言「風」より

再び、環境行政の出番です!

加藤 三郎


1.環境庁発足から50年

今年の7月1日は環境庁(2001年に環境省に昇格)が発足して50回目の誕生日であり、同時にこの日は、私が初代の部長を務めた地球環境部の30周年の節目となる。そこで環境省の若手有志職員が中心となって、環境庁(省)の50周年記念史を出すこととなり、その一環として、いくつかのテーマ毎に、当時の関係者OBにインタビューして、そこで奮闘・経験したことや現役に対する期待、激励などを述べてもらうという企画に沿って、私のところにも“出演”依頼が来た。

私への依頼は、①93年の環境基本法の制定を巡る動きと、②90年の地球環境部の誕生前後の動きや意義などについて、当時共に苦労した仲間とインタビューに応じてほしいということで、もちろん承諾した。とはいっても、この二つはおよそ30年前の出来事で、私の記憶も曖昧になっている部分もあるので、当時のメモや資料を引っ張り出し、事前に勉強した上でインタビューに臨んだ。ここではこの一連の作業を通して改めて気づいたことをお伝えする。

2.かつては、よく頑張った日本

私だけでなく、環境NPOの多くが、先頃まで、日本の環境政策、特に気候政策のパフォーマンスについて語り出すと、「日本はすっかり遅れてしまった、一体何をやっているのか、外国のNGOから「化石賞」という不名誉な賞を毎年のようにもらう国になってしまった」といった不満や批判ばかりが、この10年、口をついて出ていた。私自身は、安倍政権時代の環境軽視政策に嫌気がさして、「経済優先に屈伏した環境政策」などと批判したこともあった。

このように、日本の環境政策といえば、先進国の間では周回遅れが通り相場になってしまったが、過去50年の日本(当然ながら環境庁・省だけでなく地方自治体、企業、市民団体、メディアなど)を振り返ってみると、よく頑張ったなあと言えるものが、20年位前まではいくつもあることに改めて気が付いた。その一つ一つを詳しく語る紙面の余裕はないので、忘れてはいけない事項だけ、以下に簡単にリストする。

(1)1970年前後の都市化や高度経済成長時代の日本を襲った激甚な産業公害と70年代に二度あった石油危機に対する果敢な挑戦。日本の空も海、川もクリーンさを取り戻し、OECD環境委員会も、77年には日本は公害との戦いに勝ったとの主旨の評価を下したように、大規模な公害対策を実施しても経済成長も可能であったことを示した。また生活排水を分散型システムでも十分効果的に処理することが可能であることを、日本発の浄化槽システムは示した。

(2)日本の公害対策の経験と当時の豊富な資金力をバックに、中国、東南アジア等への分厚い環境協力を実施し、これらの国々の対策を支援した。特に中国には大きな援助をした。1992年の「地球サミット」において、日本政府は5年間で1兆円の環境ODA供与を表明したが、92年から5年間の実績は、それをはるかに上回った。途上国への環境協力には地方公共団体の職員も沢山、現地で貢献した。

(3)世界平和と並び「持続可能な開発」は、現在、世界の最も中心的な指導理念だが、その概念の確立に、日本は大きな役割を果たした。具体的には、その概念を国際的に確立させたのは「環境と開発に関する世界委員会」(委員長はノルウェーの医師出身で、同国首相も務めたグロ・ブルントンラント女史)が87年に東京で発表した「我ら共有の未来」レポートであることは、世界中の識者に知られている。この委員会の設置を82年に国連に提案し、その運営資金の負担を表明したのは日本政府で、特に鯨岡兵輔や原文兵衛の二人の環境長官が踏ん張ったことは、あまり知られていない。今日のSDGs重視はその延長線上にあり、誇るべき実績だ。

(4)気候変動対策といえば、「パリ協定」と答える人はいても、その前身であり、97年に採択された「京都議定書」の先駆性を思い起こす人は今、どれほどいるだろうか。日本政府が頑張って国連の交渉会議(COP3)を京都に誘致し、気候変動対策の出発舞台を提供、当時の橋本龍太郎首相や大木浩環境大臣は、その成功のために尽力したことは忘れられない。

このように、日本提案による「ブルントラント委員会」の84年発足→87年の「持続可能な開発」概念の確立→92年6月の「地球サミット」の開催とそこでの気候変動枠組み条約採択→93年の環境基本法の制定→97年の京都議定書採択→2015年のパリ協定とSDGsの採択という一連の流れに貢献した日本の環境政策を、私は誇らしく思う。

3.「2050年、実質ゼロ」で再び光を

2012年末からの第二次安倍政権の7年8か月は、アベノミクスという名の経済成長政策一本槍で、気候変動対策には目もくれず、15年末にパリ協定が採択されてもエネルギー環境政策は全く変えず、国内外のNGOや心ある企業人の批判を招き続けた。この停滞を突き破ったのは、安倍政権を継承した菅政権の10月26日の「2050年カーボンニュートラル」宣言である。これを機に、日本の環境エネルギー政策は劇的に変化し、小泉環境大臣のいう「脱炭素ドミノ」が自治体や企業を巻き込んで津波のように広がり始めた。これがどのような実質的効果を出すかは、今後の政治状況にも左右される筈なので、まだ確かではないが希望は持てる。

バイデン大統領主催の気候サミットで菅首相が「2030年に46%削減、さらに50%の高みに向け挑戦を続ける」と国際的に公約した以上、その方向に前進する筈だ。そうなれば、日本の経済社会全体がグリーン化に取り組み、かつてのように、日本にも健全な環境政策の出番が再び来ると期待している。そのための処方箋は、私は近著『危機の向こうの希望―「環境立国」の過去、現在、そして未来』で提示したつもりだ。