1994年1月号会報 巻頭言「風」より

「環境と文明」雑感と期待

天野 明弘


近くの街の再開発地域に、大変美しい高層ビルが完成した。このビルは、三石塔(トリリス)、すなわち3つの巨大な石をギリシャ文字のパイの形に組み合わせた古代の石の構造物のような珍しい形をしている。そして、美しく輝く無数の特殊ガラスで覆われていて、建物自体はきわめて省エネルギー型になっている。しかし、あるテレビ局の調査によれば、この種の省エネ技術は、大都市のヒートアイランド化に大いに貢献しているそうである。太陽光線の反射が余りにも効率的で強いため、近くを通る歩行者には2つの明瞭な影ができる。近所の住民は、ビルの完成とともに突然2つの太陽をもったようなものであり、真夏には光と熱の真っ只中に置かれる。

建物が受け取っている太陽光線は同じだから、特殊ガラスを用いた「省エネ技術」は、もし建物の内外を空調をしなければならないのであれば、全体としてのエネルギーについては何の節約にもなっていないはずである。つまり、この新しい技術は、社会的な観点から見れば何の効用ももたらさない。内部の人にとっては有益かも知れないが、外部の人々にとっては有害であり、このような「ネガティブな外部性」による環境問題は、身近な所でも枚挙に暇がない。しかも、地球環境問題のような大掛かりな環境問題であっても、実はその根は同じなのである。

経済学では、ある人の通常の活動の結果生じる便益や費用が、何の対価の受け払いもなく直接他人に帰するとき、それを外部効果という。ある主体の活動が、他人や社会全般に対してネガティブな外部効果をもたらしている場合、通常その主体にはその費用を負担する必要がなく、したがって、当該主体は社会的に望ましい以上にその活動を過度に行うようになる。このような外部費用が、それを引き起こした人々の意思決定に何らかの方法で反映されるようにならないかぎり、環境問題はなくならない。また、環境問題が経済活動の規模とともに大きくなる原因もここにある。

残念ながら、人間活動に起因する地球環境の劣化は、既にさまざまな側面で地球の自浄能力を超えてしまった。しかし、われわれの社会はまだ環境汚染のような社会的費用を経済主体の意思決定に正しく反映させるような社会経済システムを確立するにはいたっていない。そればかりか、その原因についての認識も乏しいと言わざるを得ないのである。