1994年3月号会報 巻頭言「風」より

欧米だけでなく、日本にも

加藤 三郎


地球環境問題が80年代後半に入って急速に浮上するに及び、次のようなことを耳にし、目に触れることが多くなってきた。それは、「ベーコン、デカルト、ニュートンらによる西欧の二元論の科学哲学の確立以来、自然は征服すべき対象と明確に位置づけられ、それが今日の地球環境の破壊を招いた。この二元論を克服するためには、東洋の“自然との共生”の哲学こそが必要であり、救いは東洋文明からしか来ない」、また「産業革命以来の科学技術が大量生産・大量消費を基とする成長型消費文明をつくりだし、地球の環境資源を食いつぶしている。この背景にはキリスト教があり、“山川草木悉皆成仏”の仏教思想でないと解決できない」などに代表される意見である。

私はこれらの意見に同感するところがないではない。東洋人として、日本人として正直、そうであってほしいとも願う。しかし同時に、「救いは東洋文明からしか来ない」とか「仏教思想でないと解決できない」という点になると、ほんとかなの疑念がまず起こり、そして次に、東洋文明や仏教は、今日の環境問題にそれほど真剣に取り組んでこなかったのではないかとの思いを振り払えないのである。

読者諸氏もお気づきのことと思うが、本誌の「文明論ノート」に登場する論説、特に世界のみならず日本でも影響力のあるものに、欧米人によるものが少なくない。それはなにも、わが編集部が西欧に偏しているからではない。近世に入っての、西欧文明がもたらした環境問題を含む様々な問題に早くから鋭敏に気づき、その問題を克服すべく世界的視野で真剣に取り組んできたのは、まぎれもなく欧米人に多いのを反映してのことである。スウェーデンの国連人間環境会議の開催提案(1968年)、米のメドウズ教授らによる「成長の限界」の指摘(1972年)やレスター・ブラウン氏らによる「地球白書」での問題提起(1984年以降毎年)など、ほんの数例をみても明らかだ。日本は、その経済的成功とは裏腹に、環境問題に対する本源的な分析や哲学的考察、さらには環境倫理の確立に向けてのシステム的努力に、かなり遅れをとってしまったというのが私自身の実感である。

役所を退いて私が環境問題に関する文明論の探求を始めた大きな理由はそこにあるが、単に欧米の先達の後を追うだけでなく、少なくとも戦前までは美しく豊かな自然を見事に保ってきた日本の伝承や生活のなかにも、21世紀に通用する理念を探ってみたいというのが私の願いである。