1994年5月号会報 巻頭言「風」より

中国大陸

井村 秀文


筆者が初めて中国大陸の地を踏んだのは昨年の初夏、北京であった。人々の服装は豊かとは言えないものの、その表情は明るく、活気が感じられた。自転車、リヤカー、露天の店、交差点の台上で交通整理をする警察官。子供心に記憶に残っている高度経済成長期以前(あるいは、その開始後間もなく)の日本の姿をそこに見たような気がした。日本人の目にはあまり近代的とは思えず、品揃えも豊富とは言えないが、それでも外国製品が一応陳列された百貨店。昔ハイカラに感じたデパートも実はこんなだったのかもしれないと感じた。お会いした清華大学の先生に、日本と中国のギャップは何年ぐらい感じるかと聞かれて、北京のような都会で30年、もしかしたら40年ぐらいと答えてみた。

戦後生まれの筆者であるが、幼児の頃、父親や伯父達が何人か集まって酒席で語る話題と言えば満州のことばかりだった。筆者の郷里に置かれていた師団が関東軍の基幹部隊の1つであったためらしい。しきりに彼らの口の端に上った奉天やハルピン、牡丹江といった都市名や地名だけが不思議に記憶に残っている。アカシヤの大連。学生時代に読んだ五味川純平氏の「人間の条件」。不幸な戦争のことを論じる力はないが、およそ半世紀前、満州という地に百万を超す(?)日本人がいたという事実が何とも不思議な気がする。

こんなことを考えているのも、近々遼寧省をはじめ中国の東北地方を訪問するためである。福岡空港から遼東半島の先端の大連まで、飛行機で2時間余だから東京へ行くのとたいして変わらない。博多湾を出れば玄海灘、大陸までは一衣帯水である。最近、福岡近辺の企業では、週末1、2泊出かけて韓国で宴会をやるのがはやっている。筆者の大学では、中国人留学生のいない研究室は1つもないと言ってよい。かつて太宰府が置かれていた此の地に住んでいると、否応なく大陸の空気が伝わってくる。

それにつけても、地理的には近い中国、韓国だが、心理的には随分遠く感じ続けてきたような気がする。それもこれも、人の往来に制限があり、彼の地の実態がテレビ等の映像で報じられる量が少なかったためのように思われる。戦後半世紀を経て、再び、大陸が身近に感じられる時代が到来しつつある実感がする。多くの父兄の複雑な思いをあれこれ推測しながら、近く訪問する中国東北地方のことを想像している。