1995年2月号会報 巻頭言「風」より

阪神大震災について思うこと

加藤 三郎


戦後50年を画する年の年明け早々、阪神大震災が発生して以来、日本の関心は、この大震災の被害の大きさとともにそれが露にした諸問題に集中している。まず私は、不幸にして亡くなられたり、被災された方々とその御家族等に対し、心からお悔やみとお見舞いを申し上げる。同時に、ボランティアや公務員が不眠不休の状況で救援・復興に奮闘されておられることに対しても、深甚なる敬意を表したい。

さて今回の震災は、地震の巣の上に都市・工業文明を築き上げた日本の社会が潜在的に抱えている様々な問題をあまりに劇的に浮き彫りにしたために、それらを巡る論議が連日マスコミを賑わしている。曰く、政府の危機管理能力の不十分さ、都市機能の大災害に対する脆弱さ、耐震構造や基準の甘さ等々の問題から、身障者や老人などの弱者に対する保護やショックから立ち直れないでいる方々に対する心のケアの問題等々に至る、実に様々な問題が突きつけられ、いずれも早急な対応が求められている。これらの問題のうち、ここでは次の一点についてのみ、とりあえずの所感を述べておきたい。

どういうわけか阪神地域では“大地震は起こらない”と考えられ、ほとんどの人がノーガードの状況であったと再三報道されている。日本列島にあっては、どの町がいつ襲われても不思議ではないと誰でも考えているに違いないと思うので、何故、阪神間で安全神話がささやかれていたのか気にかかった。

思うにこの楽観は、実は阪神間の人々に限ったことではなく、他の地域、特に大都市部に住む人々も似たような気持ちなのではなかろうか。何故なら、①いつ起こるとも知れない地震等の襲来に常時備えていることは、経済効率を著しく損なう。加えて、快適性とかスピードとかの現在の都市生活に不可欠な要素のいくつかを犠牲にすることが必要だが、これは耐えがたい。②そもそも震災などの“不条理”なことは、他の場所ならいざ知らず、自分のところには起こらないと考えたいし、仮に起こるとしても、遠い遠い先のことと考えたい。③近年における科学技術の長足の進歩は、いくらなんでも私達の生命、財産を護ってくれているに違いないので、災害のことなど心配したくない、といったような気分は、今の都市生活者には、多かれ少なかれ共有されているのではなかろうか。

こうやって書いてくると、現在の人々の震災への対応振りと私達が常に心配している地球環境問題への対応振り(前号の「問題提起」等を参照されたい)とに共通点が多いことに気がつく。環境と文明の問題が、今や抜き差しならぬ問題になっていることを改めて、重く受け止めている。