1995年5月号会報 巻頭言「風」より

青島ショック

加藤 三郎


今年は終戦から50年の節目の年であるので、これまでの半世紀を落ちついて振り返り、間近になった21世紀をいろいろな角度から展望する機会となる筈であった。ところが阪神大震災の衝撃に引き続いての、あのオウム・サリン騒ぎ、警察庁長官への襲撃、そして急激かつ大幅な円高など日本社会を震撼させる一連の出来事が相次ぎ、静かに過去を振り返り、将来を展望する余裕を失ったかの如くである。

この陰にあってやや地味ではあるが、4月に実施された知事、市長や地方議会議員等の選挙の結果、特に東京、大阪の知事選にみられた、いわゆる無党派層の政治的威力もまたオウム等の諸事件のインパクトに勝るとも劣らないものがあった。まさに1995年には、日本列島の地殻が社会的にも経済的にもそして政治的にも大変動を来した観がある。

このうち、環境・文明論の観点から特に私の注目をひいたのは都知事に選ばれた後の青島幸男氏の発言である。何故なら私は、限りある地球で人類が生き延びてゆくためには、「成長」に狂奔する20世紀型文明を支えてきた「制度」、「技術」そして「価値観」のいずれも大きく転換せねばならないことを本誌でも繰り返し強調してきた。そのためには、基本的にはわれわれ自身が変わらねばならないが、制度の場合、直接の責任者は政治家であるので、政治そのものが変わるべしと考えてきたからである(たとえば本誌前号「問題提起」)。

青島氏の何に注目したかといえば、世界都市博なるものの中止公約に関し、中止したらかくかくの金額がかかるとの損得に基づく説得に対し、彼は“金額の問題ではなく、中止を公約した政治家の信義の問題だ”としてこれを退けたと報じられた点にある。

選挙公約など弊衣の如く捨ててかえり見られず、理念や信義よりも政略や損得が全面に舞う政治を長いこと見せられた私たちからみれば、こんなことで21世紀に人類が直面するであろう大困難を切り抜けてゆくことができるか、はなはだ心もとない思いをしていた中での青島ショックである。

青島さんが知事として今後どのような政治を行ってくれるかは、大きく目を開いて見てゆかねばならないが、彼が金の問題でなく政治家の信義の問題として、公約に忠実に都市博の中止を求めた一事を私は評価したい。その理由は、「公約に忠実」は民主主義の基本であるというだけでなく、21世紀に向けて、短期的な損得や「現実」への安易な妥協の上に、政治家により「制度」が創られ運営されたら、地球の人々には混乱と破局しか残らないであろうことを恐れるからである。