1996年2月号会報 巻頭言「風」より

ハワイは深かった

加藤 三郎


ハワイ。多くの日本人にとって、それは太平洋に浮かぶ常夏の楽園、日米開戦の地、アメリカ50番目の州、新婚カップルやゴルファーの格好のリゾート、さらにはバブル期には不動産の投資対象の地などであろう。実は私が、94年の暮れにプラハでスーザン・マーコット女史と「持続可能な生活」とか「環境倫理」に関心を持つ日米の民間人同志で会合を持ったら有意義で面白かろうと話し合い、その会合の場所としてハワイを選んだのは、単に日本と米大陸の中間点、つまり交通と費用の便からそうしたにすぎなかった。

それから1年少々。スーザンとわが方の鈴木猛氏との間で頻繁に連絡を取り合って準備した後、この1月20日に約60人の民間人が日本、米大陸及びハワイの各地からホノルルに参集した。第一にしたことは、地元のNGO「未来の友」に案内されて、ハワイの先住民の生活や伝統を取り戻そうとしている学習センターを訪れ、そこでの活動の実際を見、真剣に運動している人達の深い思いに触れたことであった。

実は私はうかつにも、ハワイの先住民の子孫たち(といっても、西洋人のほか、日本人、中国人などの血も混じっているが)の間では、キャプテン・クック(西欧文明)によるハワイ「発見」、特に1893年に合衆国政府がハワイ王国の独立を奪って以来、それ以前の解放的で平和的であり、自然と調和していた生活が変質され、政治的、経済的、文化的に「支配」されている状況に対し、如何に深い憤りを持っているか、そしてまた島民の一部には「独立運動」すら真剣に語られていることなど、ここに来るまでは少しも知らないでいたのである。

標高1000メートルほどの山塊の裾野にある学習センターは、山から海までのかつての生活がいかに自然と調和し、祖先を敬っていたかを、話だけでなく、タロ水田での実習やタロの料理、さらに野生の植物から着る物の作成を通じて、子供たちのほか、現代社会からはみ出してしまった人たちに教えている聖なる場所であった。私は、思いもかけずにハワイの深い一面を教えられ、粛然とならざるを得なかった。

3日目には、ハワイ大学のキャンパス内にある東西センターでの会合が開始されたが、ここでも、ハワイの「長老」からの現地語でのお祈りから始まった。その後すぐに私は宮澤賢治の思想、感性が21世紀に向けてどう活かされ得るかについて「雨ニモマケズ」の詩を引きながら話をしたが、賢治の世界は、自然と人間への深い愛を基調としているだけに、殊のほかハワイの方々には共感し得る世界のようだった。

この地に来て、改めて、20世紀の大量生産・消費の文明が、ハワイだけでなく日本もアメリカもアジアの国々の環境や文化をいかに変質させ、持続性を損なってしまったか、そしてそれを回復することがいかに苦難に満ちたものであるかを思い知らされたのである。