1996年6月号会報 巻頭言「風」より

憲法に「環境」が見えない

加藤 三郎


この5月の連休に久しぶりに日本国憲法を前文から読み通してみた。前々から、憲法をじっくり読み直してみたいと思いながら、その時間が見つからないでいたのが、やっとかなったのである。

本欄でも繰り返し主張しているように、世界の人口がますます膨張し、それを受け入れる環境が摩滅してゆく21世紀を少しでも安全なものにするためには、価値観、制度及び技術の三つのツボを攻め、転換しなければなるまい。このうち「制度」は、社会の枠組みであり、その中核は、行・財政、税制、金融などを含む諸法令である。

その諸法令のトップにくるのは、憲法である。現行憲法が、21世紀の地球環境時代に向けても十分に機能しうるものかどうかを見直してみたいと思ったのが直接の動機であった。読んだ結果は、50年前に制定されたままであるだけに、憲法には「環境」のかの字も触れておらず、物足りないというのが、私の正直な感慨である。

もちろん我が国には、環境行政の支柱として環境基本法が2年半ほど前に制定されている。これは、しばしば「環境分野の憲法」と言われることがあるが、基本法といえども数ある法律のなかの一つという位置づけだ。そのせいばかりではないが、国の他の優先分野の利害と競合すると、しばしば環境は後まわしにされてしまう。

例えば景気が悪くなると、いともあっさりと公共事業の増額や公定歩合の引き下げは決まってしまう。また日米の経済摩擦が大きな政治経済問題になると、内需喚起剤として、あっという間に「10年間に630兆円の公共事業支出」が政治決定される。しかし、その公共事業が環境にどんな影響を与えるかを事前に評価するための環境アセスメントを法制化することは、20年以上も棚ざらしのままである。

いうまでもなく、「経済」も人間にとって大切であるが、人間の生存そのものにつながる「環境」は同じく大切である。この2つの「大切」をどう調整するかのガイドラインが今の憲法にはない。これまでのところ、「経済」が出っぱれば「環境」が引っこまされてきた。そのようなことの繰り返しが、地球環境問題である。

法律家は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(第25条)」や「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利(第13条)」で「環境」を説明しようとするが、そんなまわりくどいことでなく、せめて韓国の憲法にある「すべて国民は、健康かつ快適な環境の下で生活を営む権利を有し、国家と国民は、環境保全のための努力をしなければならない(第35条)」や中国の憲法の「国家は、生活環境と生態環境を保護、改善し、汚染その他の公害に対する対策をすすめる(第26条)」なみに、直截に書けないものかどうか、大いに議論が起こってもよいのではないかと考えた。会員皆様のお考えは如何であろうか。