1996年7月号会報 巻頭言「風」より

そもそも国政は・・・

加藤 三郎


前号本欄で私は、日本国憲法を久しぶりに読み返したところ、50年前に制定されたままでその後何の変更も経ないできた条文だけに、近年重大な問題となりつつある環境問題について何ら触れていないところが物足りない旨述べ、会員の皆様のご意見を求めた。

実は、私が日本国憲法に関し物足りなさを感じたのは、なにも「環境」だけではないので、本号ではもう一つの気がかりについてもこの際触れておきたい。これもわが3×3(サン・サン)マトリックスにおける三つのツボ(1996年3月号参照)のうち「制度」の改革に深くかかわると思うからである。

会員の皆様もご存知のように、憲法の前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、云々」の長い一文で始まっている。その文のすぐ後に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」の文章が続いている。ここでひっかかった。

何が気になるかといえば、国民は「国会における代表者」ないしは「国民の代表者」を通じて行動し、その福利は国民が享受することになっているが、①さきの住専国会におけるように「代表者」がきちんと機能しないときはどうしたらよいのか。②機能しているとしても、「国会における代表者」以外の人、すなわち自治体の首長、自治体の議員、企業やNGOなどの民間組織、国民一人ひとりさらには外国人などは、「そもそも国政」においてはプレイヤーとしての意味がないのであろうか? もちろんそんなことはないはずだが、憲法の条文を見ていると、今日の世界で国会や国民の「代表者」よりも、よほど生き生きして日本の社会を動かしているように見えるアクターの姿が少しも見えてこないのが残念だ。

①については例えば「国民投票」などの制度をもっと積極的に憲法に位置づけてもいいのではないか。②に関して、私たちは3カ月にわたって日本における環境NGOの可能性を見てきた。私たちの「考える会」を含め、日本の環境NGOはまだまだ微力ではあるが、それでも世界人口の増加や地球環境の悪化などを前にして行き詰まりに陥りつつある20世紀型文明を克服し、新しい文明の姿を手探りしながら追い求めている。丁度幕末の行き詰まりを打破するために吉田松陰や福沢諭吉が私塾をつくり、坂本龍馬が会社(海援隊)をつくってNGO活動をした動きにも似ていると言ったら過言であろうか。私は憲法が求めるような「代表者」だけを通じて国政を動かすことを期待した時代はもう過ぎたように思うが、この点についても会員の皆様のご意見は如何?