1998年6月号会報 巻頭言「風」より

環境危機管理

加藤 三郎


近年「危機管理」という言葉が目につくようになってきた。特に3年半前の阪神・淡路大震災後に日本社会、なかでも政府や自治体の「危機管理」態勢の不備が強く指摘された。その後もペルーでの日本大使館人質事件、日本海でのロシアのタンカーの油事故、また昨今ではインドネシアの政変における邦人の脱出・移送問題など大きな災害や事故が起きる度に、日本社会における危機管理の不備が批判され続けている。

ものの本、例えば『現代用語の基礎知識』などによると、危機管理はもともとは軍事的危機に際して、それが戦争へ拡大するのを防ぎ和平へ収拾するための体系的機能をいい、1962年のキューバ危機を契機にその理論と実践要領が発展してきたという。それが今では軍事的危機だけでなく、ハイジャックやテロなどの政治的社会的危機、地震や洪水などの自然災害、さらには火災や爆発などの人為的災害などに対しても、事態の迅速な収拾処理のための手法としても用いられるようになったと説明されている。

なるほどそうか、それなら、今私たちが強く心配している環境の危機、例えば地球の温暖化に伴う様々な気候上の異変、人間を含む動物の生殖機能に悪影響を与えているのではないかと強く懸念されるようになってきた「環境ホルモン」、あるいは地球の歴史のなかでも6500万年ぶりといわれる生物種の大激減などへの対応は「危機管理」的手法で当たるべきではないのであろうか。

とはいっても、これら環境の危機は、地震やテロリストさらには人間のミステイクなどにより発生する災害に比べれば、はるかに「緩慢」なものであろう。温暖化や環境ホルモンの影響は一朝一夕に現れるものではない。またその現れ方も、自然災害や人為災害とは自ずと差はあろう。

しかし、地球環境の危機として専門家が明らかにしつつある事実や信頼すべき推測、また最近の「環境ホルモン」問題など、人工化学物質に関する様々な状況報告を読んでいると、事態はかなり差し迫っており、これこそ正真正銘の危機なのではないかと思い至らせる。従来のような「環境対策」とか「環境保全」といった危機感や切迫感に乏しいコンセプトにとどまっていてよいのかが心配になってくる。

これまでの行政手法からすれば、科学的にハッキリと断定できる段階でもないのに、国民を騒がせたり、また行為を規制ないしは禁止したり、社会経済のシステムを構造的に変革することはできないということかもしれない。しかし現在第一級の多くの科学者らが指摘したり、懸念している内容の重大性からして、「危機管理」に匹敵する対応をとるべきではないのか。なぜなら危機管理においては迅速な事後処理も重要であるが、それを避ける(この言葉の起源である「キューバ危機」の場合には米ソ間の熱核戦争を回避した)、事前の果敢な行動はそれ以上に重要であるからである。

このような「危機管理」的施策が効果あるためには、5年刻みぐらいのタイムテーブルのなかで優先課題を戦略的に練り上げなければならない。加えて災害の場合と同様に政治の強いリーダーシップとともに国民自身が情報を積極的に取り、事態の把握に自ら努めることも不可欠だ。「官」頼みでなく、自ら動くこと、これが基本である。