1999年3月号会報 巻頭言「風」より

青島ショック(2)

加藤 三郎


今から4年ほど前の95年5月の本欄で、いわゆる無党派パワーで選出されたばかりの青島知事のある決定に関連して私は論じた。それは選挙の公約通り世界都市博の中止を決定したことだ。中止したらかくかくの金額がかかると損得に基づき説得されたのに対し、青島さんは「金額の問題ではなく、中止を公約した政治家の信義の問題だ」としてこれを退けた姿勢を私は評価したのである。

その理由として、私は次のように述べている。「公約に忠実は民主主義の基本であるというだけでなく、21世紀に向けて、短期的な損得や「現実」への安易な妥協の上に、政治家により「制度」が創られ運営されたら、地球の人々には混乱と破局しか残らないであろうことを恐れるからである」と。

さる2月1日、その青島知事は記者会見をして、今春の知事選には出馬しないことを明かにし、再び大きなショックを与えた。この不出馬決定について、「青島らしく潔い」、「自らの能力を知っての良き決定」といった肯定論がある一方で、「所詮は無責任男」、「戦線離脱で後は野となれ山となれか」などなどの厳しい評価も沢山ある。

私自身は、①政策形成能力の源泉の問題、②政治の実行力の問題という二つの観点から、今回の青島不出馬を考えてみたい。

青島さんは、都市博中止以外は、さして特色ある政策を打ち出せず都庁官僚の言いなりにならざるを得なかったことが挙げられている。これに関連して思い出されるのが、昨今、特にやかましく言われるようになった「官僚に頼らない政治」だ。しかし、政策形成を官僚に頼らないとすれば一体、誰がするのであろうか。日本の政治は官僚に代わり継続的に政策形成しうる組織を用意しているのだろうか。私にはそれが十分に有るとは思えない。無ければ、青島さんとさほど違わなくなってしまう。

私は、この役をなしうる可能性があるのは、多様でプロフェッショナルなNGOだと思っている。このような能力を有するNGOが活躍しうる様々な環境(例えばNGOの活動を資金面で支える税制上の措置など)を整備するのが日本にとって死活的に重要であることを、青島不戦は明示しているのではないか。

次は、政策の実行力の問題である。無党派知事の青島さんには、この4年間「与党」はなかったと言われている。しかし政治家にとって、与党がないというのは、エンジンや翼のない飛行機みたいだ。これでは、一度は思い切りよく飛び上がったものの後は風まかせのグライダーみたいに浮遊しているだけで精一杯になってしまう。

考えてみれば私達も、環境を護り、持続可能な社会(循環社会)をまず日本につくることを願い、処方箋も書きつつあるが、それを実行する強い意志と能力を有する政治集団を持っていない。我々の主張には未だエンジンも翼もないのだということを再認識しなければならない。この点では青島さんだけを責められない。この春の地方選からでもそんなことを強く考えながら、環境に良い政治を求めて、まず投票に行こうではないか。