1999年9月号会報 巻頭言「風」より

「足るを知る」 経済 - 稲盛和夫さんに聞く

加藤 三郎


2年ほど前に、京セラの稲盛和夫会長(当時)の環境と経済に関する考えを本欄で紹介したことを記憶している読者は多いかと思う。それは、毎日新聞社の125周年記念シンポジウムにおける稲盛さんの発言と、それとは対照的な関本忠弘NEC会長の見解に私は関心をもち、3号にわたってかなり詳しく紹介するとともに、私の見方も添えたものであった(97年5月号6月号7月号)。

そのうち、特に私が共感した稲盛さんの発言骨子を今一度振り返ってみると、次の5点に要約できる。

  1. 大量生産・大量消費という今日の経済の下で生み出される活動量は、地球の環境容量を越えつつある。
  2. しかし、貧しい途上国が発展する余地も残さないわけにはいかない。
  3. 先進国の私達の生活は、すでに十分に豊かである。
  4. 従って、仏教の教えの「足るを知る」をベースに、「使い捨て」経済ではないものを大事にする新しい経済システムを考え出さねばならない。
  5. このような経済は、十分に可能であり、21世紀を積極的に生きる知恵となる筈だ。

この「使い捨て」でない「足るを知る」経済という発言、しかもそれは経済界のリーダーの口から出たものに、私はひどく驚かされたのである。

それ以来、今日まで、「足るを知る」経済とはどんなものなのか、京セラという生身の企業は、会長の考えをどう実行しているのか、いないのかなどに私は関心を持ちつづけ、思いをめぐらしてきた。時折り私の考えを本誌に書いたり、著書などにも綴ってきた。

そんな折り、毎日新聞が「どうする?循環社会を築くために」という新企画を月2回のペースで設け、その聞き役として私がつとめることになった。そのトップバッターとして稲盛和夫さんに登場してもらうことになったので、幸運にも私は日頃の疑問を京都の本社で直接ご本人にぶつけることが出来たのである。(その内容は今松英悦編集委員によってまとめられ、毎日新聞の8月9日付の1、3面に掲載)。

「足るを知る」経済を主張するに至った背景や、そこに込めた内容を伺ったところ、稲盛さんは次のように語っている。

「産業革命で人類が工業手段としての動力を見つけ出し、経済は発達しました。それを加速したのが人間の際限のない欲望で、科学も発展させました。その結果、資源の消費は際限なく拡大し、環境問題や食糧問題に大きな影響力を及ぼしています。

経済が際限なく拡大していくことはないだろうと、漠然と多くの人が分かっていると思います。ところが、近代経済学では経済成長が社会システムとして組み込まれており、変えることができないと思われている。これに手をつけてみようではないか、経済成長のない社会システムはあるのではないかということです。

物理学や化学の世界では地球上、宇宙のすべての資源やエネルギーは有限で、増えも減りもせず、不変です。そのなかで、素晴らしい変化がある。つまり、足るを知るという経済は、マクロでは拡大しないが、ミクロではダイナミックなことが起き、発展していく」と。

稲盛さんのゆったりと、しかしよどみのないこの話を広い応接間の窓から南京都の緑の山並みを近くに眺め、私は次のような思いを巡らせながら聞いていた。

「足るを知る経済というのは、規模の拡大を目指さなくとも、その内部では、常に無限に変化している活動的な経済。丁度、元禄以降の江戸時代のように、人口や経済の規模はほとんどゼロ成長であっても、内部は少しも停滞しておらず、封建制の強い規制のなかにあっても文化的に高い水準を維持した経済。そんな経済のことを考えればよいのかな・・・」と。

実際、稲盛さんは、私のいろいろな問いかけに例えば次のように答えている。

「環境を改善するための産業は経済を活性化し、ダイナミックにするためにも重要です。環境を守るということは、経済を萎縮させることと同義語ではない。」

「公共投資も新しい、21世紀に向けた方向に転換していくべきです。エネルギー問題でも、省エネルギーを学校教育や社会教育などを通じて、もっともっと啓もうしていく必要があり、それに公共投資としてお金を投じていい。ところが、そういうことに無意識にブレーキをかけているのは、大量生産、大量消費という使い捨ての社会が経済のパイを大きくするという信仰です。」

さらに、「足るを知る」ということを京セラはどう実行しているのかを問うたのに対し、いろいろと語っているが、次の発言を聞くと、「足るを知る」経済というとなにか景気浮揚一辺倒の経済界の調調のなかにあっては消極的なポリシィと聞こえかねないが、実は正反対の逞しく積極的な理念であると稲盛哲学が思えてきた。

「うちはカメラも作っていますが、カメラ産業の環境問題で一番頭が痛いのは、銀塩フィルムです。そのうえ、現像や定着時にも薬品を使う。そこで、写真は銀塩フィルムを現像し、印画紙に焼き付けるというのではなく、いまは、コンピューター入力用とみられているデジタルカメラで撮影し、コンピューターのディスプレーやテレビでみるんだというものにしたい。

フィルム産業はどうなるんだという議論があるでしょうが、鹿児島県の屋久島には自然界の倒木更新ということがあります。成熟した巨大な天然杉が腐って倒れると、そこから新しい芽が出てくる。巨大になった産業は倒れ、後に若い産業が生まれる。こういう新陳代謝、淘汰が21世紀に向けて正しい姿です。」

私は、生々流転につながる、この「倒木更新」という言葉とともに稲盛哲学に魅了されてしまった。

しかし、喜こんでばかりはいられない。今、世の中は「景気浮揚」一色である。特に、小渕内閣になってからは、財政再建は放り投げて大借金によって一時の「景気」 -それも公共事業中心の-の上昇にやっきであり、例によってエコノミストと称する人達がそれを囃し立てている。

このようななかにあって、「足るを知る」経済が、21世紀の私達の社会に、具体的にはどういう意味合いを持つのか、次回はオックスフォード大学の取組を材料にさらに掘り下げてみたい。