2013年8月号会報 巻頭言「風」より
過去と未来に想いをはせて
藤村 コノヱ
気候変動の影響がますます顕著になり、この夏も、“記録的”猛暑や“これまでに経験した事のない”豪雨が国内外で多発していますが、皆さま、如何お過ごしでしょうか。 昔は「30度を超えます」という天気予報を聞くと、「今日は暑そうだな」と思っていたものですが、最近では30度といわれると、「今日は涼しそうだ」と感じてしまうほどで、地球温暖化はますます現実味を帯びてきていることを実感します。
そして暑い夏の過ごし方も、昔とは随分違ってきたように思います。
九州の大分で育った私の子供の頃の夏といえば、朝はラジオ体操、涼しいうちに「夏休みの友」などの宿題を一応すませ、午後は水泳という日課でした。水泳の場所は、雑草に囲まれた小川、農業用水路、一級河川、そして時には海、と色々でしたが、今のように「川に近づくな!」という看板は皆無でしたし、紫外線も日焼けも気にせず、でしたから、夏の終わりにはどこが顔か分からなくなるほどでした。お腹をすかせて家に帰ると、庭で太陽の光を浴びて育った捥ぎたてのトマトやキュウリが井戸水にプカプカ浮いていて、それを丸かじり。当時のトマトやキュウリの味も今とは違う気がします。またあの頃は毎日のように夕方になると遠くから雷が聞こえ、しばらくしてざっと一雨、という感じでした。そしてお盆は、夏の楽しいイベントの一つでした。当時は大家族が普通だったので同じ年頃の従弟も多く、一家一同が祖父の家に集まるとかなりの人数。親達が近況報告で朗らかに語らっている傍らで、子供はトランプやかくれんぼ、お墓参りのあとは花火や盆踊りと、夏の特別の日を楽しんだものです。まさに、映画『三丁目の夕日』の田舎版といった感じです。今のように快適なクーラーもゲームもスマホもありませんでしたが、夏は夏なりの遊びや行事、のんびりした過ごし方があった気がしますし、何より、子供も大人も、時間的にも心にもゆとりのある、良き時代だったと思います。
しかし今は、1日24時間は変わらず、また寿命は延びているにもかかわらず、全てがスピードアップされ、子供も大人も年中、時間や何かに追われ、ゆとりのない時代になっている気がします。
例えば、塾が当たり前の昨今は、子供たちも夏休みだからといってのんびり遊んでばかりはいられないようです。しかもその塾も、「限られた時間内に何問解けるかが求められ、考えることは必要とされない。」という内容が多いとのこと。ある親御さんが「機械的に回答して行く能力は高まるけれど、思考力はつかないだろう」とこぼしていました。また遊びもサッカー、ゲームと年中定番メニュー。子供の遊び場になりそうな場所には「川には近付くな」「危険。近づくな」といった看板が目立ち、あれもだめ、これもだめで遊ぶ場も機会も奪われているためかもしれませんが、子供らしい遊びはあまり見かけません。季節の家族行事も海外旅行に様変わりです。
先日、ブログにも書いたのですが、自民党の教育政策の公約の一つは、「世界で勝てる人材の育成」という企業戦士、それもグローバルに戦える一部企業戦士の育成であり、「英会話やIT能力に優れ、海外でも技術革新を生み出せる」人材を想定しているそうです。勿論そうした能力も必要ですが、それが教育かという気がします。子供には生物としての子供の成長速度があるはずですし、心も体も頭脳も大人の都合通りには発達しません。日本語さえも満足でない子供にまで、やれITだ、やれ英語だと急き立て詰め込んでも、決していい結果を生み出さないことは、昨今の犯罪・自殺・性などの低年齢化からも見て取れます。大人の都合ではなく、手間暇かけた子育て、教育が大切なのに、今の日本では全く逆行しています。
政治もそうです。今回の参院選でも、経済ばかりが叫ばれ、中長期的な課題である温暖化問題や原発、財政再建や社会福祉、そして雇用問題などは殆ど争点になりませんでした。“決められる政治”といいますが、深い真摯な議論もないままに、短期的視点、経済目線だけで国を動かされてはたまったものではありません。本来、衆議院は「刹那的な国民の気持ち」を、参議院は「継続的な国民の気持ち」を代表させるということから二院制がスタートしたといわれますが、最近は両院ともに「刹那的な国民の気持ち」しか代表していません。19世紀、アメリカのジェームズ・クラーク牧師は、「政治家は次の時代を考える、政治屋は次の選挙を考える」と言ったそうですが、昨今の日本を見る限り、“政治屋”ばかりが目立ち、「100年の計」という長期的思考ができる政治家は殆どいなくなったかのようです。勿論それを選択する私たち国民にも大きな責任がありますが。
こうした政治の現状に対して、7月23日付の朝日新聞で、内田神戸女学院大学名誉教授は、“決められる政治とかスピード感とか効率化という政策内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのはここ数年”であり、“この時間意識の変化は経済のグローバル化が政治過程に侵入してきたことの必然的帰結であり、政治過程に企業経営と同じ感覚が持ち込まれた”と述べています。全く同感ですが、政治だけではなく、教育・子育て、そして私たちの暮らしも全てが、短期的な経済の僕(しもべ)になりつつある気がします。
最近、「2052~今後40年のグローバル予測」という本がちょっと関心を集めています。かつて世界の人々に重大な警告を発したローマクラブ『成長の限界』(1972年)の著者の一人ランダース氏が、あれから40を経た今、今後の40年先を予測し、私たちの生きるべき道を示したものです。その中には、“世界の平均気温は、産業革命以前と比較して2050年には2度上昇。その頃までは破滅的影響は出ないが、21世紀半ば以降は歯止めのきかない気候変動に人類は多いに苦しむことになる”“食糧生産は2040年頃ピークになる”、さらには“2052年の世界は、物質的豊かさのレベルは総じて向上しているが、精神的満足度はおそらく今より低下しているだろう”などの予測が列挙されています。やはり、このままの道を進む限り、相当厳しい時代になることは確かなようです。
今回は2つの冊子を同封しました。『環境文明21の20年』は、上記のように、経済、スピード・効率、グローバルに振れ過ぎた振り子を、せめて中心に戻そうと努力を重ねてきた環境文明21の20年のささやかな挑戦の記録です。そして『生き残りへの選択~持続可能な環境文明社会の構築に向けて~』は、ランダース氏らが予測するような世界にしないためにも、こんな価値観を大切にして、こんな社会を目指して、こんなことをやっていこうという、私たちなりの思いや考えをまとめたものです。
せめて、夏休みくらい、のんびりとゆっくりした時間を過ごし、2冊の冊子もめくりながら、過去を振り返り未来に思いをはせてみてはいかがでしょうか。