2000年11月号会報 巻頭言「風」より

欲しい改革のエネルギー
-鈴木先生とスウェーデン環境党-

加藤 三郎


鈴木猛さんの遺訓

先月号で急ぎお知らせしたように、本誌の創刊以来、知恵に満ち、人間味あふれるエッセイを書き続けてこられた鈴木猛さん(当会理事)が10月12日未明入院先の病院で肺がんにより急逝されました。77才でした。同じ環境衛生分野の先輩としてお名前は私も若い時から存じ上げていましたが、一緒に打ち解けて仕事をするようになったのは、亡くなった古谷野加代さんのご紹介によります。93年の春だったと思いますが、当時は環境文明研究所の設立と当会の発足、そしてその性格づけなどを模索していた時期でありました。先生はすでに70才になっていましたが、心身ともに若々しく、会や研究所のあるべき姿や理念を、私や古谷野加代、藤村コノヱ、荒田鉄二といったスターティングメンバーに説いて倦むことを知りませんでした。特にお好きな日本酒でも入るものなら、若者顔負けの情熱を傾け、議論に熱中されました。

鈴木先生は、千葉県の生まれで、千葉一中、旧制一高、東大薬学部卒で薬学博士、WHO職員と絵に描いたようなエリートで、若い時には厳しい学徒であった由ですが、私達と一緒に仕事をする頃には、過去のキャリアや学問上の専門は背後において、すっかり“環境文明”論に夢中になられたのは皆様が本誌を通じてご存知の通りです。

その先生から私達当会のスタッフはたくさんのことを7年間学び続けました。特に強く印象に残るのは、「マンネリに陥ってはならない。常に変化を求め、多様な意見やアプローチを尊重せよ」ということでした。先生の言葉を聞いていると、私はよく松尾芭蕉翁の不易流行の教えを思い起こしていましたが、それはともかくとして、私達がとかく“環境オタク”になりがちなのを常にいましめ、環境問題をいつも社会の幅広い文脈の中におき、私達が作り出した文明の中に相対化する努力を怠りませんでした。生来の読書好きが先生の知的エネルギーを亡くなる時まで支え続けてきたと思います。先生の文明論にそれが色濃く現れているのは、本誌の読者ならつとにお気づきのことと思います。

その先生が特に愛され、期待もしたのは、女性や若者が持っているであろう変革のエネルギーです。日本では今、環境だけでなく、財政も政治も社会も、特に行き場を見失った若者達なども未曽有の危機にありながら、それらを明確に意識化し、行動化もできないほど私達のまわりでは危機が進行しています。それなのに、散発的なデモや変化はあっても日本列島を貫くうねりのような大変化は未だ顕在化していません。日本の男社会を覆う既得権益にしがみついたインポテンスが先生にはどうにも我慢ならなかったでありましょう。

それだけに若い世代に奮起を催す思いは深かったと思われます。実は、私は、この秋(9月)ヨーロッパを訪れスウェーデンの「緑の環境党」を訪ねて議員と話し合った時に、一入その思いを深くしました。やはり政党を一つ作りあげる位の若々しいエネルギーが不可欠だと痛感しました。その思いを先生にお話しする間もなく逝かれてしまったので、本誌を通じて皆様にご報告するとともに、私達を見守り、エールを送って下さっておられるであろう鈴木猛さんにもお話ししたいと思います。

スウェーデンの環境党

●結党の事情

日本でも、今ではよく知られるようになりましたが、ヨーロッパでは、ドイツ、フランス、スウェーデンなどで緑の党ないしは環境党が政権の一翼を担うまでになっています。ドイツの社会民主党と緑の党とのいわゆる「赤・緑連合」(1998年)は特に有名で、その効果による環境税の導入や原子力発電施設の寿命を平均32年で打ち切る最近の決定には、驚かれた方も多いでしょう。

私自身は、過去数年、ドイツ、オランダ、フランスの緑の党関係者(議員、元議員、党事務局)を訪ね歩いてきました。そのことは時折著書などにレポートしていますが、それらの環境党が特に力をいれて取り組んでいる政策課題は、ほぼ共通して、平和、人権(特に男女の真の平等)そして原子力問題です。例えば、ドイツ緑の党の創設者の一人であるリッペルト議員(95年当時)にお目にかかった時には、反原子力と平和から出発した緑の党も、いまやエコロジー(環境問題)だけでなく、エコノミー(経済)にも大きな影響を与えている様子を知りました。

この秋(9月)も、スウェーデンのNGO諸団体の活動状況を調査旅行した折に、ストックホルム市内の「緑の環境党(以下、環境党と略す)」国会事務所を訪ねてきました。そこでは、現職のリンドバル女史と元議員のスコンベリュー氏に面会し、結党の事情や現在の政策方針などを伺いました(前号13頁の写真をご覧下さい)。

ここでも結党のきっかけは、原子力発電問題でした。スウェーデンでは、原子力発電継続の可否を巡って、早くから国民の間で議論が続いていたのですが、1979年のスリーマイル島事故の後、議論が益々沸騰しました。翌80年には国民投票が行われましたが、その結論として日本によく知られているのは、「2010年までに、原子力発電を全廃する」ということです。しかし、お二人によると、実はこの時、国民が選ぶべき選択肢を作成する過程で、当時の与野党間で巧妙な妥協が図られたのだそうです。単純にイエス、ノーの二者択一だけでなく、80年時点で計画中(工事中)のものは、その作業を続けた上で2010年に全廃、つまり、80年時点からは原子力発電所の追加を認めた上での30年先の2010年には全廃という趣旨の一項目が加えられ、結果的に多くの国民がこれを選ぶところとなったといいます。

しかし、これは、当時の反原子力派にとっては、選択肢の作り方に政治的妥協が行われ、プラスしてからゼロにするという欺瞞だと映りました。そして、この事態を憤懣やるかたなく思い地団駄踏んだ人たちが、自前の政党を持たぬ悔しさを味わされたのです。そのため、当時の保守系の人たちもかなり加わり、若い人達が中心になってついには環境党をつくるところまでエネルギーが高揚しました。お二人によると、まさか政党ができるなんてと思っていたそうですが、皆が手弁当で頑張っているうちに、あれよあれよという間に81年には自前の環境党が出来ました。

82年には早くも地方議員を出し、88年に国会議員を送り出すことになったのですが、これは、スウェーデンの政党史では約70年ぶりの新党誕生という画期的な出来事になったそうです。今では社民党などとともに政権に参加しています。つまり、スリーマイル島での事故が、スウェーデンでは一つの政党、それも後に政権の一翼を担うものを作ったことになります。

ちなみに、私が本稿を執筆していた少し前には、日本の新聞各紙は“JCO臨界事故から一年”を特集などで論じていました。ざっと見たところ、よく言えば冷静、淡々とした分析記事が多く、悪く言えば一年前にマスコミがあれほど騒いだのがウソのようです。国民レベルでも関心は薄まったようで、日本では多少の規制強化はあったものの、政党をつくるどころか、本質的には何も変わりそうもありません。日本にとってこのような“平穏さ”が吉であるか凶であるかは、恐らく5~10年後には明らかになるでしょう。(スウェーデン環境党の極めてユニークな政策綱領等については、次号で詳しく紹介します。ご期待下さい)