2002年10月号会報 巻頭言「風」より

ヨハネスブルクから京都ヘ

加藤 三郎


9月4日まで南アフリカで開かれていた「持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット)」は、実施計画や政治宣言を採択して閉幕した。私自身は、各種報道やインターネット上でこの会議の成り行きを日本でフォローしていたが、難航はしたものの一応の成果を挙げて閉幕したことでほっとしている。日本の新聞各紙によると、政府筋は概ね「成功」と評価する一方、NGOのなかには「大いなる失敗」と酷評しているところもあるが、人類社会を取り巻く厳しい政治、経済、社会の現実を考えると、私は「希望の灯りをかき消さなかったサミット」と評価している。

この会議は、10年前に開催された地球サミットで約束されたことがどの程度進展し、どこに問題があるかなどの検討と、今後何をすべきかの合意が主たる課題であつた。したがって、地球サミットの時のように新機軸が出てこなかったのもやむを得ない面はあるが、地球環境の急激な悪化と拡大の続く貧富の差を考えると、成果のもの足りなさは否めない。

特に、9月11日の、ニューヨーク貿易センタービルやワシントン国防総省等に対するテロ攻撃からの一周年をどう迎えるか、さらにイラクヘの攻撃をどう準備するかが多分最大の政治的関心事であったろうブッシュ大統領が欠席したことも、この会議の意義に水を差し、精彩をいまいち欠いたものにしている。

しかしながら、この10年間先進国の経済社会が不安定のなかで推移し(例えば株価の乱高下、失業の増大、民族紛争の激化など)、またブッシュ大統領の欠席に代表されるような政治的諸課題が山積しているさなかにあって、まがりなりにも190カ国ほどの国が、環境と開発を巡って政治的合意にたどり着け、未来に向けて希望の灯りをかき消さなかったことはそれなりに評価しなければならないと私は思っている。

特に嬉しかつたことは、このサミットでロシアとカナダの両首相が京都議定書を近く批准することを表明したことである。このことは、京都議定書が遠からず(来年の中盤頃か)発効することを意味し、同議定書が動き出すのを待ちかねていた人にとったら大きな朗報といえる。これもまた今回のサミットの「効果」と考えたい。

先ほどヨハネスブルクでは新機軸が出なかったと述べた。確かに、地球サミットにおいては温暖化防止のための条約、生物多様性を保護する条約、「共通だが差異のある原則」を含むリオ宣言など、重要な新機軸がいくつも出されたが、今回のサミットではそれに匹敵するものはない。しかしながら地球サミットでの約束から、ブッシュ政権を除き、少なくとも後退はしていない。そういう意味で、地球サミットの約束が再確認されたことになる。

ブッシュ政権になってから顕著になってきた、いわゆる米国一国主義、米国覇権主義に対する厳しい懸念、批判が今回の会合で明確に表明されたことも、特筆に値する。報道によれば、9月4日パウエル国務長官がアメリカ政府代表として演説している時、会場から激しいブーイングが起こり、何度も中断せざるを得なかったという。私自身もその一部をテレビで見ていたが、このようなことは、この種の重要な国連会議では稀有なことである。

最終日に採択された政治宣言にも、国連を中心とする多国間協調の重要性があえて強調されている。わざわざこのような項目を政治宣言に入れたこと自体は、おそらくアメリカの一国主義が目に余ることだと多くの参加者が感じたからに違いない。

この会議で注目すべきことは、NGOの参加がより大幅に、かつ深く浸透したことである。すでに30年前のストックホルム会議のときからNGOフォーラムが設けられ、政府代表団の会議とパラレルでNGOの会合が開催され、政府とは違った意見表明やデモンストレーションがしばしば行われてきた。それ以後、大きな国際会議のたび毎にNGOの参加が拡大されてきたが、今回はよりー層NGOの政策決定プロセスヘの参加が充実されたようである。そのことは、会議の盛り上げのためだけでなく、合意事項の実施段階で、一層重要になると思われる。

もう一つ、どうしても触れておかねばならないことがある。それは、環境に関する重要な国際会議ではいつも問題になる日本のリーダーシップについてである。アメリカの「後向き」姿勢がつづいているなかで、本来は日本のリーダーシップが期待されたのだが、今回もせいぜい「調整役」で終わった印象が強い。その原因は多分、政府代表団が各省の縦割り連合軍で、統合された価値観や交渉方針を共有しえなかったことによろうが、より基本的には、日本の政治が「経済と環境」問題(例えば、経済対策のなかに環境保全を組み込むことの有効性、原子力利用と自然エネルギーの開発など)について、明確なスタンスを確立しえていないことにあると考えている。

例えば自然エネルギーの開発利用の促進などの問題が発生すると、原子力推進の経産省の政策とのからみからか、自然エネルギー開発目標設定に関するヨーロッパ提案をアメリカなどと一緒にたたいて回ることとなり、せっかく日本が京都議定書の発効を強く求めたポジティブな役割を相殺してしまった、と多くのNGOが批判している。要は、日本の国としてのポジションをどこに置くかであるが、これは縦割り行政のなかで仕事をせざるを得ない公務員が決めることではなく、「政治」が明確にしなければならないことである。 しかし現状では、その最も大切なことを役所に任せるため、省益ないしは業界益の狭間でふらついてしまうのである。そして、そのような政治をいつまでも許しているのも基本的には国民のこれまでの選択の結果であることをここでも指摘しておきたい。

なにはともあれ、ヨハネスブルク・サミットは終わった。これから先の最も主要な環境政策上の課題は、京都議定書で日本に課せられた「温室効果ガス6%削減」の達成である。C02など温室効果ガスの2000年度の排出は、13億3千万トン余(一人当たり年間10.5トン)で、1990年レベルに比すると8%増になる。つまり、あと10年ほどの間に、あらゆる手段を駆使して14%程度の削減が必要ということである。

これは、日本の政策、技術開発、国民の意識などが今のままであるとしたら、達成不可能な数字である。「削減」どころか、「増加」の一途をたどってしまうだろう。しかし政策、技術、意識のいずれも転換することが出来れば、私は達成可能だと思っている。いや、達成可能どころか、現在、日本の社会を蝕んでいる様々なマイナス面、たとえば創造性のない政治、省益に縛られ縦割りで結果的に無責任となってしまう中央行政システム、長期的視点を欠く企業経営、投票に行く努力すら怠る多くの有権者などにカツを入れ、目覚めさせる効果もあると思っている。

よく90年代は「失われた10年」と言われるが、私はこれからの10年は京都議定書をバネにして、「日本再生の10年」にしなければならないし、それは可能だと信じている。