2005年10月号会報 巻頭言「風」より

市民も環境力を磨こう

藤村 コノヱ


今回の衆院選は郵政民営化を掲げた小泉自民党の圧勝でしたが、いろんな事実が見えた選挙戦でもありました。批判する以外に目立った政策を打ち出せなかった民主党はじめ野党の敗北は、ある程度の予測はついたものの、あれほどまでの差が出たことは意外でしたし、小選挙区比例代表制では小さな政党はとても勝ち目がないことが良くわかりました。また選挙戦のさなかのハリケーン・カトリーナや台風14号の襲来にもかかわらず、温暖化対策や環境政策が全く争点にならなかったのは意外でしたし、政治家の環境意識、というより私たち国民の温暖化に対する危機意識が、それを政治にぶつけるほどには至っていないことを裏付ける選挙戦でもありました。

加えて、いままではどちらかというと良識を持つ中立派だと思っていた無党派といわれる人の中にも、実は真剣に日本の将来を考えての無党派と、時流に簡単に乗る付和雷同型の無党派とがいることもわかった選挙戦でした。今後4年間、与党と野党の数のアンバランスが日本社会の混迷と環境の危機をさらに深めるのではないかと心配ですが、それ以上に、しっかりした将来を築くには私たち市民がもっと賢くならなければ、という思いを強めた選挙戦でもありました。つまり、加藤代表が力説する「環境力」を、企業や行政以上に、私たち市民こそが持たなければいけないのではないかと強く思ったわけです。

代表は著書『福を呼びこむ環境力』で、企業の環境力として、1)環境の未来を科学に基づき直視する確かな先見性と知恵、2)それを経営戦略に組み込める戦略性と技術力、3)公平・公正の感覚や社会的責任(CSR)の自覚、を挙げていますが、私もそれにならって「市民の環境力」として、1)何かおかしいと感じる直感(観)力、2)直感と科学に基づく想像力(先見性)、3)暮らしや地域・社会を変えようとする勇気と行動力、4)社会的責任を自覚し実行する力、の四つを提案しています。

1つ目の直感力は、外界を感知するために備わっている五感やその他の感覚をフルに使って、「何かおかしい」という感覚をもっと磨こうということです。最近は生活が便利になり「人力」を使うことが少なくなったために、五感に基づく直感力が鈍ってきているようです。特に若い世代では冷暖房の完備された室内で育ったために暑さ寒さに鈍感で体温調節ができないという話や、メールのやり取りが日常化し相手の表情や心情が読み取れず人間関係が築けないなどの話もよく聞きます。しかし動物がその五感で生命の危機を感じとるように、人間も折角持って生まれた五感その他の感覚を大いに磨いて、直感力を直観力にまで進化させ、自然界そして人間界の危機を感じることが大切ではないでしょうか。

2つ目は、ただ「おかしい」と感じるだけでなく、それを科学に基づく的確な情報と結びつけ、将来どうなのかを思い測る想像力(先見性)を持つことです。昨今の自然災害や身近な花の開花時期の変化をみて、「何か変だ!」と思う人は多いのですが、それが温暖化の進行と結びつかないことがあります。しかしちょっと気をつければ、新聞・TVにも科学的情報は沢山ありますし、本誌今月号、そしてこれまでも最先端の科学的な考え方・情報を掲載しています。また2月16日京都議定書発効を記念して設立された「フォーラム気候の危機」では、「何か変だ」と思っている市民と研究者が共に語り合うシンポジウムを各地で開催していますが、そうした場に参加して科学的データに接すると、将来がより鮮明に見えてきます。自らの感覚と科学が結びつけば、将来予測だけでなく、それに備えて、例えば、高台に住むとか、夏向きの家作りをするとか、夏に強い体力をつくるなど、個人の工夫や対策の幅が出てきます。それに温暖化時代になっても、被害を最小限に止めることができるのではないでしょうか。

これだけ科学技術の進んだ日本にいながら日本人は科学に弱いといわれますが、昨今のアスベスト問題のように、後になって「知らなかった」「あの時こうしておけばよかった」とならないように、今のうちから科学的で的確な情報に耳を傾け、将来を見越す力をもっとつけるべきだと思うのです。ちなみに、環境文明研究所では温暖化時代にどう適応して生き抜くかを考えようと検討会を始めました。温暖化防止のために様々な手段を講じることは勿論今後とも大切ですが、どんなにがんばっても温暖化時代は来る、だから今のうちからその時代を生き抜く対策や智恵を考えておこうという趣旨です。これは決して逃げに転じたわけではなく、厳しい温暖化時代を生き抜く智恵こそが持続可能な社会に生きる智恵そのものなのではないかと考えているからです。

3つ目は、直感(観)力、想像力を基盤に暮らしや地域・社会を変えようとする勇気と行動力をもつことです。現代の生活は一見豊かで、その「ぬるま湯」から出るにはちょっと勇気が要ります。それに将来が予測できても、「自分一人がかわっても温暖化は止められない」「数十年後はそうかもしれないが、明日困るわけではない」「誰かが何とかしてくれる」という声もよく聞きます。でも、お湯が沸騰すれば、火傷をするか慌てて飛び出るかのいずれかしかなく、ずっとぬるま湯につかっていることはできません。それに一体誰が私たちの暮らしや社会を守ってくれるのでしょうか。昨今の政治の混迷や箍の外れた社会の現実をみれば、他人任せにせず、一人ひとりが賢くなり、気づいた人ができることから行動する以外に道はないことは明白です。いつまでもぬるま湯につかっているわけにはいかないと思うのです。

そしてこの力が、第4番目の、公平・公正の感覚を持ち将来世代や他地域に対する社会的責任(SR)を自覚し発揮する力にもつながります。社会的責任といえば、企業の社会的責任(CSR)ばかりが叫ばれますが、行政にも市民にも社会的責任はあるはずです。今回の衆院選も高投票率といわれましたが、67%で3割以上の人が国民の最も基本的な社会的責任を果たしていません。また子孫に生命の基盤である恵み豊かな環境や資源を引き継ぐことは、私たち人類に課せられた当然の社会的責任ですが、これさえも多くの大人が先送りしています。構造改革の掛け声が高まり民営化の流れが加速しそうですが、「なんでも民営化」の前に、まずは、日本がめざすべき持続可能な社会とはどんな社会なのか、それを創造するために行政・企業・市民は各々どんな役割を担うべきか、といった議論を巻き起こし、その議論に私たち市民も積極的に参加する、そしてそこで与えられた責任を全うする努力を払うことが、真の社会的責任ではないでしょうか。

戦後60年私たちは民主主義という名の教育を受けてきましたが、多くの人が権利や自由のみを求め、義務や責任を放棄してきたのが日本社会の現状です。「環境教育・学習は有限な地球環境の中で、人としての生き方、社会経済のあり方を学び、その実現に向けて行動する人を育てること」が私のかねてからの主張ですが、それこそが環境力にも、真の民主主義にもつながると、改めて思っています。