2021年9月号会報 巻頭言「風」より

時代はらせん的に進む

田崎 智宏


7月号を最後に、本欄「風」は藤村コノヱさんと研究者三人が交代で担当することとなり、研究者側の一番手として、会員歴が一番長い当方が書くこととなった。私は、国立環境研究所で研究者をする一方で、当会では理事を務めさせていただいている。

加藤三郎さんとの最初の関わりは、1997年だったと思うが、20年以上前にさかのぼる。当時、加藤さんが出された本『環境と文明の明日』を読み、環境問題と人間社会の課題が本質的かつ平易に伝えられていることに感銘を受けるとともに、環境庁をやめてまでNPO活動に力を注ごうという意気込みに心打たれたことがきっかけである。本に書かれていたNPOの電話番号におそるおそるかけた電話一本が、今までのご縁となって継続してきたこと、そして、「風」の一読者にすぎなかった私がここに文章を書いていることは想像もできなかった。人生何があるかわからない。一期一会は大切にしたいものである。

7月号の「風」では、「急激に変化する時代にふさわしい、よりフレッシュな見方や感覚を、会員や会の活動に反映」するという加藤さんと藤村コノヱさんの期待が述べられている。そこで本号では、「環境文明」について私が感じ考えていることを皆様と共有したい。

変わらないこと、変わること

この20年間、社会は大きく変化してきたことはいうまでもなく、我々が実感している。しかし、面白いことに加藤さんが「風」で語りかけてきたことの本質は変わっていない。本人もよく言っていることなので、間違いないだろう。私なりに言えば、それは、環境の大切さであり、人々の生存基盤としての環境が脅かされているという事実であり、それらへの対応が適切に組み込まれた文明への期待である。たとえて言えば、病気にかかったときの対応として熱が出たから冷やせ、安静にしようといった対症療法ではなく、日頃の生活を省みるという根本療法を求めているのが環境文明21である。個々の環境問題による症状ではなく、その原因たる人々のあり方を文明という視点から根本を見直そうとしている。

こういったことを、会の中心に据えるべきことは今後も変わらないだろう。しかし、時代が変わっていることも事実。時代は、形を変えつつも同じことを繰り返しているようで、実は違うステージに移っている。その違いを認識しなければこれからの環境文明はつくれない。らせん的に社会が進化するなかで、環境文明の構想はどう進化していくのか。2つの変化から考えてみたい。

まず、デジタル技術が社会に浸透して、コミュニケーションの形が大きく変わった。コロナ禍でも人々がつながれる手段となる一方で、人々が直接発するメディアの存在感が強まった。その帰結として、真実でないことをばらまき、多くの人を誘導することができるポスト・トゥルースの時代となってしまった。環境問題を根本から認めない人々との溝は深まるばかりである。熱意をもって議論に応戦すると、今度は一般の人々の気持ちからは乖離してしまう。激しい活動をしている等のレッテルが貼られて環境NPOが避けられてしまい、楽しめる、ライトなエコ活動の方が好まれる。社会というものは、なにはともあれ、多くの人々や組織から構成されている。その観点からいうと、人や組織のつながりを大きく変えたデジタル化社会においては、市民社会やメディアの根本が変わっている。それが生まれたときから当然であるデジタル・ネイティブ世代以外の人々は、その変化にうまく対応できていないだろう。この状況下でこれからの環境NPOはどうあるべきか。

次に、環境政策の側も考えてみたい。過去20年ほどで、2つの潮流があった。一つは各問題への専門化である。現在未解決の環境問題は、解決が難しいから残っているので、より高度な知見が求められている。気候変動、資源循環、生物多様性、化学物質リスクなど、いずれをとっても、より詳しい知見が求められている。もう一つは、問題への個別対策ではなく、原因となる社会システムそのものを「転換」しようという動向である。英語ではトランスフォーメーションならびにトランジションという言葉が使われ、国連が全会一致で採択した「持続可能な開発目標(SDGs)」の文書にもこの「転換」という言葉が使われている。さらに、国連はSDGsの4つの特徴の一つを「変革性」として重視している。ひるがえって日本政府の「SDGs実施指針」における原則を見ると「普遍性」「包摂性」「参画型」「統合性」「透明性と説明責任」の5つであり、「変革性」は抜け落ちている。変わろうとしない日本はどこに行くのか。しかも、「透明性と説明責任」については論外の状況だ。

転換には、個人の行動や意識が変わるだけでなく、社会の制度やルールが変わる必要がある。しかし、この20年間の環境政策で多くみられるのは、長引く経済の低迷のなか経済的手法のような強力な手法を使わずに自主的手法を多用することであり、普及啓発手法によって個人の行動を変えようとすることであった。言い換えれば、環境問題が発生するという人間社会の構造的問題を、個人や個々の企業の努力に負わせてしまうアプローチであった。また、技術による解決も重宝された。技術による解決は一時しのぎにはなるが、リバウンド効果を生み、その効果が消失してしまうことは顧みられていない。脱炭素社会への移行はまさしく「転換」を行う環境政策であり、日本の環境政策を次の時代にふさわしいものに転換できるか、日本人の真価が問われている。