1995年1月号会報 巻頭言「風」より

女性に期待する

鈴木 猛


いま、30代、40代の女性が書いた本が面白い。

林真理子は、自分のミ-ハ-性をきちんと見据え、そこから出発しているところが凄い。この歳になって彼女にいかれるとは自分でも思いがけなかった。

DCブランドに浮き身をやつし、化粧にこだわる若い女性たち。同じ時代に同じ東京に住む彼女たちを、今までまるで「異星人」のように見ていた。その彼女たちもまた「今」を生きる同志だと実感できたのは、林真理子のおかげである。

中野翠は書いている。

「私は“知識人”にも“大衆”にもなりきれない、ハンパな人間だ。・・・しかし、もしかして“知的な大衆”というものだったらなれるかもしれない。深い知識がなくても、社会全般に対する定見がななくても、自分個人の生活のなかから、きちんと“自分の言葉”をみつけだしてゆける人間には、私だってなれるかもしれない。」(『満月雑記帳』)。

これは、ぼくの思いとほとんど同じである。

地球環境についての個々の科学は日進月歩で、その具体的内容にはとてもついていけない。そうかといって一般大衆にもなりきれない。専門家と大衆を結ぶもの、「知的な大衆」だったら、ぼくにもなれるかもしれない。それがおそらく、ぼくにできる唯一の貢献であろう・・

宇井純氏の公害問題にかけた情熱は、惨めな水俣病患者の認識から出発した。その原点に帰ること常に心掛けていると、どこかに書いていた。

地球環境問題はなんとも厄介だ。なかでも重要な地球温暖化やオゾン層破壊では、それを直接の原因として死んだ人は今までいない。また、悲惨な症状を呈した人を見ることもない。

日本人はいま、DCブランドの女性たちを含めた皆が平和で満ち足りた生活をエンジョイしている。その人たちに、遠くで鳴る雷鳴のような警告だけで、生活や意識を支えている価値観の転換を迫る。考えるだけで気が遠くなるような話だ。

いま必要とされるのは、知識に基づいた「男性的」抽象論ではなく、多分、日常生活の感性に根ざした「女性的」具体論であろう。どのようにそれを実現するか。今ときめいている女性たちに期待したい。

そういえば、『私は女性にしか期待しない』という本もあった(松田道雄著、岩波新書)。