1995年4月号会報 巻頭言「風」より

壇上の人

鈴木 猛


田原総一朗がこんなことを書いている(『変革の時代をを切り取る発想』)。

中小企業経営者たちの集まりで、バブルのはじけた今のまともな生活を大事にすべきだという学者の発言に、初老の経営者が顔を真っ赤にして抗議した。

「現在が正常だなどと無責任なことを言ってもらっては困る。あなた方は口舌の徒だから勝手なことを言っていられるが、わたしたちは実業家だ。現在のような状態があと半年も続けば、間違いなく倒産だ。景気がよくなるならば、はっきり言ってバブルの再来だって何だっていい・・」

フロアから壇上に、ホンネがこんなにはっきりぶつけられるのは珍しい。壇上の先生方がまさに「虚業家」に見えたんだろうし、「口舌の徒」とは、フロアの実業家が常日頃心に抱いている感想に違いない。

かつて日本で仕事をしていたころは、ぼく自身が「壇上の人」だった。海外から帰国して引退し、さまざまな講演会やシンポジウムを聞いてまわった。聴衆として先生方の話を聞く、つまり「フロアの人」である。そうなってはじめて、壇上からは見えないものが見えてきた。

今さら壇上に戻る気もないが、フロアにいても落ちつけない。だからぼくは、いつも中段でウロウロしている。

さきの阪神大震災では、国、兵庫県、神戸市などの行政当局者や学者・評論家など「壇上の人」がミソをつけ、ボランテイアたちの「フロアの人」が大活躍した。日本では育たないといわれたボランテイアが、どこからともなく無数にあらわれたのには、正直言って感動した。

日本は「壇上の人」がすべてを「仕切る」国で、普通の人は滅多に自発的行動を起こさず、ひたすら仕切りを待っている。海外報道で称賛された被災民の沈着な態度とは、要するに「仕切りを待つ受け身の態度」に過ぎないのではないか。

天変地異が落ちつけば、見事な仕切りが復活し、ボランテイアはお呼びでなくなるだろう。しかし、彼らの示した自発的活動こそが新しい日本の芽であることをぼくは信じている。

「考える会」のワ-クショップでは、「壇」を取り払うことを原則としている。「偉い人」も「普通の人」も、同じフロアで、同じ高さの目線で議論しようという趣旨だ。そしてみんなが「壇上の人」の境地を楽しむようになった。

それはそれでいい。しかし、こんなサロンに出てこない「仕切りを待っている人々」のことが、ぼくはやはり気にかかる。