1996年1月号会報 巻頭言「風」より

96年年頭に思う

加藤 三郎


会員の皆様には、96年の年始めをいかがお過ごしでしたでしょうか。楽しいこと、充実したこと、あるいは不本意なこともおありだったと存じますが、この生命に満ちた地球に生き、新しい年を迎えられた幸せに対し、まず心よりおめでとうございますと申し上げます。

ところで、昨95年は、皆様にとって如何なる年であったでしょうか。日本全体にとっては、阪神大震災のショックから始まって、オウム真理教の一連の悪業、知事選などで見せた無党派層の威力、金融や経済界のバタバタ騒ぎ、そして子供のいじめや自殺の多発に至るまで、社会的、経済的、政治的事件が相次ぎ、まことに激動の時代であったと言われています。確かにその通りですが、私にとって最も気になることは、多くの人、特に社会の要路にある人が、時代の枠組みが地殻大変動とも言うべき劇的な変化に揺すぶられているにもかかわらず、これまでのやり方を変えようとしていないことです。

例えば、バブル期の欲にかられたデタラメ経営のツケを、その中身も明らかにせず責任もとらずに、公費(税)で払わせようとすることもその一つです。そうかと思うと大幅な減税をちらつかせ、公共事業に膨大な国債を注ぎ込んでひたすら景気の浮揚を図るやり方もその一つです。前者が、いわれのない負担の国民へのツケまわしであるとすれば、後者は、一時の繁栄のために、後世や地球環境へツケをまわす無思慮で危険なやり方です。 その一方で、少なからぬ国民は、最も効果的な政治行動ができる数少ないチャンスである選挙に際し、投票場へ足を運び意思表示をする権利を捨ててかえりみない自己中心的な愚行ないしは政治的自殺行為を続けています。

こんなことでは、人間社会の持続的な発展は望むべくもありません。

さて、96年には、どんなことが待っているのでしょうか。千年紀の終わりまであと4年、21世紀まではあと5年の位置にあります。時代の呼び名が変わったからといって社会が急に変わる訳もないでしょうが、私には、この4、5年は、人間が希望をもって新しい時代を迎える準備をするうえで、極めて重要な、いわばラストチャンスとなるような気がしてなりません。

しからば社会の変化の方向は如何なるものであるべきでしょうか。本誌でも度々述べてきたように、私たちの地球の環境は有限であり、そのなかで無限の物的成長を遂げることは不可能だということを強く、深く認識することが基本です。その上で、(1)もののいのちを大切にし、“もったいない”という心で生き、ごみの再利用や自然への還元を不断に心がけることなどを旨とする「循環」、(2)この地球に生まれ、他の生きものと共に生きる奇跡を感謝するとともに、どの国の人も、地球市民として受け入れ、助け合うことなどを旨とする「共存」、(3)貪欲で地球の環境を損なっては元も子もないと自覚するとともに足るを知り、自然や文化を愛好して心豊かに生きる知恵を持っていることなどを旨とする「抑制」の三つを方向性のキーワードにし、価値観の転換、制度の変革、そして技術の革新の三つの戦略分野にできる限り肉薄することを私は本会の96年の目標としたいと考えています。本年もよろしくお願い致します。

〈追伸〉私は今月末に、この2年半ほど考えてきたことを『環境と文明の明日-有限な地球で生きる』にまとめてプレジデント社から発刊いたします。会員の皆様をはじめできるだけ多くの人に読んでいただき、同じ志を持つ人の輪や、建設的な論争の輪が広がり、深まることを大いに期待しています。