1996年8月号会報 巻頭言「風」より

賢治と生きもの

加藤 三郎


宮澤賢治は、1896(明治29)年8月の生まれであるので、今月でちょうど生誕100年となる。そのせいもあってか、今年に入ってからは賢治のことが特に多くのメディアやイベントで取り上げられている。

早くからの会員はご存知のように、本会も発足間もない時から、賢治の思想や感性が、21世紀にかけての新しい文明を探るうえで大きく貢献し得る可能性に注目し、それを引き出す試みを重ねてきた。例えば、「宮澤賢治の思想と生活を訪ねる会」を実施したり、小林節子さんによる賢治論を本誌に掲載したり、私自身も「雨ニモマケズ」に盛り込まれた賢治の願いを20世紀の思想・精神との対比で論じたり、ハワイでの日米セミナーでも賢治の可能性にふれた。このほか会員による優れた賢治論が本誌に何度も登場している。

賢治の思想と感性は確かに21世紀への道を照らす大きな光明だ。そのことをこの春出版した拙著『環境と文明の明日』のなかでかなり詳しく論じたが、本号のテーマである「生きもの」を考えるうえでも、賢治は多くのヒントを与えてくれる。

ご存知のように賢治の作品には沢山の生きものが出てくる。わざわざそれを数え、分類している学者もいるくらいだ。狐、ねずみ、蛙、猫、雁、梟、山猫、狸、うさぎ、猿、馬、牛、鹿、象、熊、豚、よだか、蜘蛛、なめくじ、蟹など多数の種が登場している。私が注目するのはその数の多さもさることながら、賢治の生きものの扱い方である。

単に生きものを登場させるだけなら「イソップ物語」のように、人間のタイプを動物に仮託して表現する手法もあろうが、賢治のやり方は、決して人間中心主義でなく、人間も他の生きものと同じレベルで「共存」している。「風とゆききし、雲からエネルギーをとれ」、「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」と言った賢治にしてみればそんなことはごく当たり前のことであろうが、進歩や進化の概念を掲げ人間中心主義を世界に押し進めてきた西洋文明からみると、この生きものとの真の共存の思想はきわめて斬新である。

何故、生きものとの「共存」が大切か。私はシンプルに考えている。それは地球が人間のためにだけあるのではなく、他の生きものも共にここで生きているからだと。人はよく「この土地は私のもの」、「あの森は彼のもの」などと人の所有を主張するが、この「所有」も、たかだか人間間の一時的な法的な約束ごとにすぎない。何故ならその土地やあの森に棲む他の生きもの(鳥、みみず、草、木…)にしてみれば、その場所は強いて言えば地球のものであって、決して「私」のものでも「彼」のものでもないことを知っているからである。

実際、私たちは他の生きものとともに、この地球に棲む一時の店子でしかすぎない。人間が地球の他の同居人と共存する仕方を賢治の全作品は静かに語りかけていると思われる。