1998年8月号会報 巻頭言「風」より

環境問題を素通りした参院選

加藤 三郎


今回の参院選は、日本の戦後政治に久々に大きな変化をもたらしたが、「環境」は素通りされた選挙となってしまった。

外形的に述べれば、今回の選挙で「環境主義」を前面に掲げた「さきがけ」が一議席も取れなかった。私は環境主義というものを掲げた政党にどのような支持が集まるかを注目していたが、環境主義だけが理由ではなかろうがこの党は結果的には見捨てられてしまった。また、大木浩環境庁長官が落選、さらに、東京から立候補したNGOの岩崎駿介氏もはるかに及ばない得票数に止まった。環境関係者としては、元環境庁長官の広中和歌子さんが千葉で大量の得票を得たのが、せめてもの救いとなった。

私の住んでいる神奈川県の選挙管理委員会が各戸に配布した各党の選挙広報に見る限り、自由民主党も民主党も自由党も環境問題はまともに触れていない。民主党の場合、「官僚依存の政治から、国民のための政治へ」と述べ、いくつかの公約を掲げているけれど、環境のかの字も書いていない。自民党も「日本をプラスに変えます」というが、環境問題は直接扱わず、一人の候補者が簡単に触れているだけである。

私は自分の専門が環境問題だからといって環境が争点とならなかったのを嘆いているのではない。日本経済のみならず国民生活や企業のあり方にまで大きな影響を与える温暖化防止京都会議の結果への対応一つとっても、それを素通りしてしまった政治がこれでいいのかという疑念を深く持つからである。本欄4月号に書いたように、日本がコミットした温室効果ガスの90年レベルからの6%削減というのは、法的拘束力を持つ重い約束である。日本がこの会議で議長を務め、最終段階で橋本総理もクリントンさんなど世界の首脳と電話協議などを経て決めた約束である。この約束を日本が守る方向づけをしなければ日本不信などという生易しいものではなくなろう。

実は私はこの小文のタイトルを「素通り」ではなくて「置き去り」という表現も最初は考えた。しかし、「置き去り」には少なくとも出発点においては持っていて、途中で置き忘れてしまったという後悔なり、悔悟の念が伴わなければならない。ところが参院選中も、そして参院選が終わってすでに1カ月近くたっているけれども、どの政党からも京都プロトコールへのまともな政策を私は新聞やテレビなどで目にしていない。

一体これは何を意味するのであろうか。京都に1万人もの人が集まり、マスコミも大報道したあの温暖化防止会議から、参院選までは8カ月もたっていない。京都会議の結論は、日本の経済、国民生活に大きな影響を与えることになるにもかかわらず、一顧だにされなかったという健忘症、それほど日本社会はボケてしまったのかという思いが強いのである。目下、金融不安をしずめること、あるいは景気をよくすることが重要だということは私も理解できる。だからこそ、その大切な経済の活性化に環境対策を組み込む政策が議論(例えば前号までの特集論文)もされず、これほど簡単に忘れていいのであろうか。

もちろんそれを許したのは、第一義的には国民であるが、争点を経済にばかり絞って誘導したマスコミも責められるべきである。「冷めたピザ」は何も小渕さんだけの話ではないと恐れるのは私だけであろうか。