2003年5月号会報 巻頭言「風」より

意気軒昂なマイノリティ

加藤 三郎


今年は、興味あるさまざまな出来事からの節目の年を迎えている。まず、江戸時代の開幕から400年の年であり、その江戸時代に終止符を打つ一つの重要なきっかけとなったペリー来航から150年の年でもある。科学技術の感覚も取り入れて、私たちに文学の楽しさや深みを教えてくれた宮沢賢治の没後70年でもある。最近では、20世紀最大の科学技術上の発見とよくいわれるDNAの解明から50年となった。これら歴史上の大出来事に比べれば極めてささやかではあるが、われらが環境文明21も設立以来、今年は満10年の節目となる。いずれも、さまざまに過去を回顧したり、その意味を改めて探ったりといった企画が動きつつあるようである。

私自身も、還暦を過ぎた頃から、やはり時折は、自分の人生が何だったかと、過去の歩みやその意味を振り返ることがある。いま改めて、私は終始マイノリティの道を歩んできたかなと、思い起こしている。しかし、それは何も僻んだり後悔していっているのではない。あえていえば、密かなる誇りを持ちながら肯定的に思っているのである。私の人生を大まかに三つに分けてみると、26歳までがいわば修行時代である。その後、53歳までの27年間が、第1の職業生活。私の場合は、官僚時代といってもよいかと思う。そして53歳から今日までの10年間が、NGO時代である。

その、それぞれにおいて私は結果的にというよりは確信的に、マイノリティの道を歩んだといえる。まず修行時代についていえば、学部の学生や大学院生の頃、世の中は高度経済成長期の真っ只中にあり、私がいた工学部土木工学科もその例外ではなかった。工場用地や都市施設などのインフラづくりと大量生産・大量消費のための大動脈づくりに貢献することが大きな役割であったように思う。私も当初は、そういった生産系のインフラや動脈づくりに興味を抱いてこの学科に進学したのであるが、ほどなくして、高度経済成長時代が引き起こした陰の部分である深刻な公害問題に関心を持つようになって、勉強しようと思い立ち、土木工学のなかの衛生工学といわれる部門を専攻した。当時は、まだまだ不人気の研究コースであって、卒業論文でこの分野に取組む学生を確保するのに四苦八苦していた時代であった。当会の理事を務めていただいている松尾友矩さんの手引きもあって、私はこの道に進んだ。

同級生の多くは、役所なら建設省、運輸省、公団系なら国鉄や道路公団、そして企業ならゼネコンへと進んでいくなかにあって、学生に人気の薄い汚水の処理を専攻したのであるから、マイノリティの部類であったわけである。しかし、後年この道は都市工学、より広くは環境工学として、大きな発展をみることになる分野でもある。

公務員時代もまた、私は生産系・動脈系には目もくれず、厚生省の公害課というところに就職した。厚生省という大きな役所の中で、公害課というのは環境衛生局の片隅に置かれた小さな課ではあったけれども、公害対策という時代の風が吹き始めていた場所でもあった。厚生省も、他の役所と同様、法律・経済をバックとする事務官と称する人達が主流であり、技術系では医者・薬剤師・獣医師などが一勢力となっていた役所に、土木工学の人間が入っていったのであるから、入った時に、役所の先輩に「土木系のポストもないのによく入ってきたね」といわれたのを今でも覚えている。

私にしてみれば、ポストがあろうがなかろうが、時代が必要とするものに挑戦するという気持ちだったわけで、ここでもマイノリティの精神を発揮したわけだ。私にとっては思いもかけず、この課は公害部に昇格し、政府の公害対策本部の中核となり、ほどなく環境庁へと発展し、今日の環境省につながっていることを思えば、決してただのマイノリティでは終わらなかったわけである。当時の私は、今日の地球環境問題、ましては環境文明論など、およそ考えておらず、高度経済成長に伴う悲惨な公害問題の解決に少しでも役に立ちたいという思いだけで仕事をしていた。27年間、公務員をしている間に、仕事の範囲が広がり経済社会との関わりも増していったということであろう。

53歳で役所を辞めて、NGOを立ち上げたのも、同じ思いである。官僚だった人間が、なぜNGOかといえば、役所を辞める直前の三年間、私は環境庁の地球環境部長というポストにあった。この間に、NGOに対する私自身の見方を180度転換させたからである。当初は、NGOなど大したことはできない、ほとんど取るに足らないという思いでいたけれども、地球温暖化防止のための条約交渉に臨んでいるうちに、WWFやグリーンピース、Friend of the Earthなどの国際的なNGOが持つ力、それが果たし得る建設的な役割、知見や人脈の広さといったようなものに瞠目するようになり、やがて自分もそういう道に進みたいと思うようになったのである。

実はその前は、役所を辞めたら大学の先生にでもなろうかという思いもあったが、大きなポテンシャルを持つ同じようなNGOを日本につくる必要性に気がついて、仲間と一緒に当会を立ち上げたのである。当初のスターティングメンバーに、既に70歳を越えていた鈴木猛さんに加え、古谷野加代さんや藤村コノヱさん、それにフリーター然としていた荒田鉄二さんなどがいた。昔の仲間からは、加藤は老人や女子どもを集めて、何をやらんとするのかといわれていたそうであるが、幸い多くの会員の協力と支援を得て、今日まで続いてきたのである。まだまだ小さい存在ではあるけれども、他のNGOの活躍もあって、この10年の間にNGOは、確実に成長し、社会の一定の評価も得られるようになってきていると思っている。

松尾芭蕉は、その晩年に、蕉風を誰が継承してくれるのか、また蕉門の将来はどうなるのか思い悩んで、「この道や 行く人無しに 秋の暮」という有名な句を残している。私たちがやってきたこと、またやろうとしていることを考えると、楽観的といわれるかもしれないが、もっと未来に希望を託してもいいのではないかと私は思っている。芭蕉の句には比べるべくもないが、今の気持ちを率直に書けば、「細けれど 未来につながる 道の朝」ということになろうか。

今年は、当会発足満10年。会報誌上や全国交流大会などの折に、いろいろな角度からこれまでの会のあり方や将来の展望を、批判的な目を持ちながら、みんなで検証し、未来を語ってみたいと思っている。当会の今後のあり方にも率直な意見をいただきたいと思う。私たちはまだまだマイノリティであるけれども、私たちの行く先に未来は拓けると思うと、意気も軒昂となるのである。